北海道(1994.8.1-26)


0.プロローグ(8.1) / 1.函館(8.2) / 2.旭川・富良野(8.3) / 3.知床(8.4) / 4.標津・野付半島(8.5) / 5.支笏湖(8.6) / 6.小清水・網走(8.7) / 7.サロマ湖(8.8) / 8.札幌(8.9) / 9.屈斜路湖・摩周湖・釧路湿原(8.10) / 10.室蘭・昭和新山・洞爺湖(8.11) / 11.稚内(8.12) / 12.利尻(8.13) / 13.礼文(8.14) / 14.サロベツ(8.15) / 15.根室(8.16) / 16.新冠・襟裳岬(8.17) / 17.厚岸・霧多布(8.18) / 18.阿寒湖(8.19) / 19.札沼線・深名線(8.20) / 20.大雪山黒岳・層雲峡(8.21) / 21.小樽(8.22) / 22.積丹(8.23) / 23.函館・大沼(8.24) / 24.エピローグ(8.25-26)

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 北海道を脱出し、実に二十三日振りに私は本州へ再上陸した。しかしまだ四時で、さすがに辺りはまだ夜であった。函館と違って二十四時間営業の直営店があるわけでもなく、私と同じように到着した客もほとんどが車だから、ターミナルの構内は、明るいけれども、至って静かだ。私は次のフェリーの客の見送りの人たちで辺りが騒々しくなるまでターミナルで仮眠を取り、明るくなった外に出て、タクシーで青森駅に向かった。タクシーは青森の新名所、ベイブリッジをまたいで走っていく。高校時代青森に来た時は、まだこんなものはできていなかった。

 切符の関係上、日常生活への回帰の歩みも、至ってのんびりとしたものになった。私は青森駅から東北本線の各駅停車に乗り、足りない睡眠を補わんとばかり、辺りかまわず寝た。浅い眠りの中で、時々車窓には、複雑な地形の中に田畑が広がっているのが見えてくる。北海道のような画面いっぱい広がる風景はないにせよ、本州の風景だって、決して悪くはない。乗った列車が盛岡までの長距離列車だったのが幸いして、私は思う存分寝ることができた。さっきまで見えていた八甲田山はいつの間にか岩手富士に変わっていた。追い抜きの関係で滝沢という駅で列車は休憩を取る。外に出てみて、空気がやはり北海道、特に道東道北とは異質のものであることを私は感じざるを得なかった。湿気をたっぷり含み、重ささえ感じるのである。そして辺りには、ツクツクボーシの声がこだまする。北海道では、ツクツクボーシに限らず、セミという虫の鳴き声を聞いた記憶が、気のせいかない。

 盛岡に着いた頃は昼時になっていた。何か食わねばとは思ったけれど、気候が違いすぎて食欲が出ない。とりあえず私は駅ビルの中にあった小岩井乳業の直営店で牛乳を飲んでみた。前来て飲んだ時は確かにおいしいと思ったものだったが、今の私には、北海道で飲んだ牛乳の方がおいしかった、としか思うことができずにいた。わんこそばの土産用セットを見た時、私の頭の中には幌加内で見つけたそば畑の風景が広がった。あれも一種の出会いだったのかもしれない、なんていう回想と共に。

 盛岡から一ノ関へ向かう客車列車にも、冷房はついていない。やはりこちらの非冷房車は、それほどでもないにせよ暑い。非冷房車を暑いと感じることは、夏の旅で、帰ってきたということを実感するキーポイントであるような気がする。走り出した列車から、私は線路際の草に目をつけてみた。ヨシはあるが、クマザサはない。ササの仲間は生えているが、クマザサほど大きくはない。フキもあるが、北海道のばかでかいフキにはとうていかなわない大きさでしかない。ある駅のホームには、ヒノキが生えている。北海道ではヒノキなんて、生えていただろうか。私は展開する車窓に、気候の変化を感じ、そして今まさに頭の中で、目の前の風景が北海道の風景とオーバーラップして見えていることを感じていた。

 やがて、北上川沿いには、いかにも日本の田舎的な風景が広がるようになった。川の周りに不揃いな形の田圃、その隙間に小さな家、そして遠くには堂々たる山。昔は蝦夷の勢力もここまで及んでいたのだろうから、多少は北海道的なものがあってもいいのではないかと思ってしまうが、風景は人間が作るものではなく、風景を作る自然の条件が、ここではあまりに違いすぎるのだ。

 一ノ関からは冷房車が当たり前になる。すなわち、冷蔵庫に入ったまま移動し、暑いところでいきなり暑い空気にさらされる、クール宅急便の花咲ガニ状態といったところか。時折通る林には、エゾマツやトドマツがないのは当然としても、エンジュはあるにせよ、あっちでよく見られるミズナラやナナカマドでさえもうほとんど見られない。そして車窓には時折、東北の大穀倉地帯の風景が広がるようになった。新十津川とかでは見られた風景ではあるが、北海道一般には、ここのようにこればっかりということはなかった。もう少し広い草原に、牛や馬がのんびりとしている風景や、ジャガイモの花、そばの花が一面に咲き乱れるという風景も、もう当分、見られることはないだろう。あっちでは道ばたに雑草のようにレンゲの花が咲き、紫色の彩りを添え、終盤には黒変していたりもしていたけれど、そのような彩りを添えているものは、ここでは確認できない。

 そして車窓には、松島海岸の多島海が見えてきた。露出する岩肌には、地層が走る。今回、多島海というものは見なかったけれど、水辺にたくさんの島が浮かぶ風景なら昨日の大沼、人工的なところで朱鞠内、奇岩というところまで譲歩すれば、セタカムイとか、車石や落石や、見なかったけれどオタモイとか……。水辺と陸地の関係にもいろいろあり、どれもがダイナミックな景観を作り出すという例を、北海道で私はいろいろ見ることができた。松島もすばらしいけれど、決してそれに引けを取らないものが、北海道にはいっぱいあったし、見ていないものも入れれば、もっとあるような気がする。

 仙台でまた乗り換えとなった。夕方の帰宅ラッシュと重なり、車内は混雑してきた。天気はいよいよ、どんよりとしてきた。北海道では全般に天気は良かったけれど、天気に泣かされた日も、確かにあった。初日の函館は、最終日で取り戻したから問題ないにしろ、礼文の元地や阿寒のオンネトーでは雨に泣かされたし、そう、Sと出会った翌日も、列車の遅れるほどの大雨だった。雨でなくても、地球岬や襟裳岬では、見通しのきかなくなるほどのガスが出ていた。季節によって北海道は違う表情を見せるとよく言われるが、これは北海道に限った話ではないかもしれないが天気によってもだいぶ違ってくるのだ。

 次に乗り換えとなった福島のJCで、私は簡単に夕食を済ませた。こんな風にコンビニ弁当で夕食を済ませた日も何回かあった。済ませられればまだましで、コンビニなんかないところもあった……。コンビニといえば北海道特有のSEICOMARTが思い出される。水筒の中身にちょうどよい、税込み百円のロング缶麦茶には、何度もお世話になった。

 列車が福島を出る頃には、車窓には完全に夜が訪れていた。旅の初め頃はわりと七時頃まで明るかった記憶があるが、今はまだ六時四十五分であり、日が短くなりつつあることを私は感じた。夜の列車にも私は何回か乗ったが、寝ていればよい夜行は別として、そんな列車は概して暇だしつまらなかった……。今のように人が多いわけでもなく、夜の列車ではなにもすることがない、というのが実に北海道の実体であったような気もしないではない。新得や幌延の寒さが思い出される……ここにはあんな、八月であることが信じられなくなるような寒さはないけれども。郡山では磐越西線の接続を取り、発車が遅れた。接続の乱れといえば、オンネトーで降られた日に根室本線がめちゃくちゃになっていたということもあり、また深名線も見事に分断されていた。旅にはハプニングがつきものだ、ということか。

 東京近郊を別とすれば、黒磯が最後の乗り換えとなる。私は、夜行列車の夜にいつもそうしていたように、駅でビールを買い込んだ。思えばほとんど晩酌を欠かすことのなかった旅行だった。締めくくりがサッポロクラシックでないのがちょっと残念である。煙草も切れたので買ったわけだが、私がいつも吸っているキャメルはどこでも手にはいるというわけではないものだから、ピースミディアムやら峰やらいろいろな煙草を吸うことになったが、そう、北海道特有のホリデイライトというのがあった。土産に買っていけなかったことが悔やまれる。黒磯を過ぎれば関東地方であるから、ここまで来れば車窓に光の粒が途切れることはなくなる。そして小山からは、列車では禁煙が当たり前になる。だんだん、こうして、東京の生活へと回帰していくのだ……。長い長いと思っていた汽車旅も、うとうとしている間にあっという間に大宮まで来ていた。

 私は浦和で列車を降りた。やっぱり辺りは蒸し暑い。こんな、十一時過ぎという時間なのに、蒸し暑い。あっちでは、昼間には蒸し暑いと感じたことも時々はあったが、夜は涼しく、むしろ寒くなっていたのに。ただ、辺りに響く虫の声は、秋のものになっていた。二十四日前の夜、ここで列車を待っていた時には、こういうりんりんりんりんという声は聞こえなかった。私は北海道から、少しだけ秋を持ってきたのかもしれない。

 私は国分寺へ帰るため、京浜東北線の南浦和でまた乗り換えることになった。乗り換えで歩きながら、私はこの旅行中、駅の待合室でしか感じなかった、眠気を誘う蒸し暑さにさいなまれていた。目的地が列車の終点なら、函館の時のように起こしてくれるかもしれないが、今回はそうではないから、いつか夜中起きられずに予定を大幅に変えざるを得なかったときのようにならないようにしないといけない。列車を待ちながら私は、南へ下れば下るほど、列車を待つ人の表情が険しくなっているのを感じた。というか、みんな疲れた顔をしているように見えるのだ。それは私とて例外ではあるまい。この旅行は実に、足かけ二十六日に及ぶ大旅行となったのである。

 足かけ二十六日目に入った西国分寺で、私は最後の乗り換えをした。こんな時間では中央線でさえ疎らになってしまう。十四分待たされるというのは、昼間の中央線からすれば確かに珍しいが、北海道では、実はこれでも短い方だったりしたような気がする。そして私は、国分寺の蒸し暑いいつもの街を歩き、旅の終わりを感じつつ、ようやく我が家に到着したのだった。誰もいない家で待っていたのは、クロマトグラフ状態の手紙の数々であった。私がいない間、何回雨が降ったのだろう……。


 こうして私の大旅行は幕を閉じたが、頭の中のスクリーンでは、ことあるごとに北海道の想い出が巻き戻されて演じられている。その後、懸案であった教育実習も無事に終え、また旅行中必要性を何度も感じた運転免許も無事取得できた。テレビで北海道のニュースや、縁起でもないが津波警報が出たときの釧路、噴火した駒ヶ岳や阿寒の山、そして崩落した豊浜トンネルなどの映像が映し出されれば、私の頭の中では最終日の帰路と同じように、私がそこで実際に見てきたものとオーバーラップする。あれから二年以上経ち、あの時乗った深名線もついに廃止されたし、あの時廃墟のように存在し、何か意図があるのではなかろうかと思わされた根室標津駅も、取り壊されたという話を聞いた。ここいらでもう一度、あの時見られなかったものでも見るために、また北海道に足を踏み入れてみたいものである。北海道の教員採用試験でも受けてみようかという、あの旅の日に少し思ったことも、いまだ否定されたわけではない。


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