北海道(1994.8.1-26)


0.プロローグ(8.1) / 1.函館(8.2) / 2.旭川・富良野(8.3) / 3.知床(8.4) / 4.標津・野付半島(8.5) / 5.支笏湖(8.6) / 6.小清水・網走(8.7) / 7.サロマ湖(8.8) / 8.札幌(8.9) / 9.屈斜路湖・摩周湖・釧路湿原(8.10) / 10.室蘭・昭和新山・洞爺湖(8.11) / 11.稚内(8.12) / 12.利尻(8.13) / 13.礼文(8.14) / 14.サロベツ(8.15) / 15.根室(8.16) / 16.新冠・襟裳岬(8.17) / 17.厚岸・霧多布(8.18) / 18.阿寒湖(8.19) / 19.札沼線・深名線(8.20) / 20.大雪山黒岳・層雲峡(8.21) / 21.小樽(8.22) / 22.積丹(8.23) / 23.函館・大沼(8.24) / 24.エピローグ(8.25-26)

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 今日の行き先は、朝の札幌の天気で決めることにしていた。果たして、札幌は日は射していたが曇り。すっかり常連になってしまったコンコースのテレビが流す天気予報を見ると、今日も明日も似たような天気らしい。どっちでもいいのかな、と思い、私は今日は末端が超閑散線である札沼線、そして廃止の噂も流れつつあった深名線の車窓を楽しむ旅に出ることにした。

 札沼線には学園都市線という愛称名があり、実家がこの沿線である大学の友人もこの名を常用しているから、この名は定着しているのだろう。私はその目新しい名に似合う、小ぎれいで明るい車輌に席を取り、初めて札幌駅から西の方向へ出発した。しばらくは高架を行き、左手に堂々たる赤い旧道庁、右手には北大の森、そして左の遠くの方で市街を取り囲む丸山や藻岩山という、都会にしてはきれいな風景の中を列車は進んでいく。

 桑園を過ぎ、右に見つけた競馬場に寄り道するかのように、列車は右へカーブを切って本線と分かれ、高架上からの見晴らしのいい風景も、高架から降りて雑多な住宅街を縫うような風景へ変わっていった。八軒までは高架化工事も進められていたから、これが完成すれば、車窓もまた違うものになってくるかもしれない。距離のわりに駅が多いせいか、列車は住宅街の中をゆっくりと進行する。

 かの友人の実家の最寄りは太平駅であると教えてくれたことがあった。その太平駅は対向ホームを造る工事が進んでいて、この線も今後ますます重要なものになりそうな雰囲気がある。相変わらず住宅街は抜けきらないけれど、建物の背はだんだん低くなり、車窓が親しみを持ちやすい街並みへと変化していることを私は感じた。この辺りから住宅の合間に、畑やら牧草ロールのある牧草地が見られるようになってきた。私などにとっては牧草ロールなど、テレビや教科書の世界の話で、接する機会がなければ知らないことも充分あり得るが、かの友人は実に誇らしげに、その牧草ロールの話をしてくれたものだ。

 赤煉瓦の倉庫が建ち並ぶ篠路は、開駅六十周年で盛り上がっていた。そして伏篭川を渡る時、車窓には学校越しに遠くの山々の姿が見えてきた。空も晴れる気配を見せている。東篠路を過ぎると、右側には荒れ地か牧草地が広大に広がり、そしてあいの里教育大の駅前も、広々として見える。団地があることから察して、無理やりできた街並みに無理やり作った新設駅なのだろう。この辺りを進むにつれ、もはや右側には何も現れず、左側の街も小さくなる一方になってきた。遠くの山影は、本当にきれいに見えていた。山の中腹を流れる一条の雲をまとい、それは青く輝く姿を見せてくれている。

 釜谷臼を過ぎて川を渡ると、辺りには広大な田圃が広がるようになった。大きい駅が近づけば、車窓はいったん小さな街になるけれども、概してそんなのどかな風景が続くようになってきた。所々宅地造成はあるが、もはや風景のメインは、水田とトウキビになった。この辺りからは、素朴なローカル線の雰囲気になってくれそうなのを、私は感じた。割と日本のどこででも見られそうな風景だが、米以外の作物、つまりジャガイモやトウキビの比率が多いように、私には見受けられた。列車はそんな風景の中を、ちょくちょく交換停車しながら、ゆっくり進んでいく。単線のくせに列車の本数が多いことを、よく表している。空は完全に晴れ、気持ちよい青空になっていた。まるで昨日の朝のようなすがすがしさだ。こんなに天気が良くなっちゃって、これで明日の層雲峡が雨だったら洒落にならんな、などと思いながら、私は列車に身を任せた。

 乗っていた列車は石狩当別止まりなので、私はここで降り、一日三本しかない新十津川行きの列車を待った。駅前から街を見る限り、当別の街は大きめではあるけれども、大都市のように整然としている感じはあまりなく、日本のどこにでもありそうな街のように私には見えた。駅前の地図を見ると、北海道によくある碁盤状の街というわけではないらしく、確かにあまりまっすぐな道というものは、街中を歩いていても少ない。店もAコープをはじめいろいろあるが、時間的なもので、まだ開いている所は少ない。駅は改装中だし、駅裏には何か立派な建物が建つ。あの田圃や畑や牧草地を飛び越え、ここまで大都市札幌の影響が及ぶ日も、遠くないような気もする。列車の時刻表も、東京では普通に見られる近郊電車のタイプであるが、鉄道でこのタイプのものを見たのは、私は北海道に来てからは地下鉄以来のような気がする。

 私は、ホームに待機していた新十津川行きの列車に席を取った。この列車がまた、昔からあるクリームと赤の単行で、床も木で、ここまで来た列車に比べていかにも古くみすぼらしい感じがして、この駅を境とするこの線の様相の違いを見せつけていた。ただし、学園都市線という愛称は一応、新十津川まで統一されているらしい。

 みすぼらしい列車は、走り出すとすぐに当別の街を抜け、車窓には広大な水田や、トウキビやカボチャなどの畑が見られるようになった。牛や馬が草を食むのどかさとは異質の、言うなれば本州的のどかさが感じられる風景が、車窓には展開する。背景に広がる遠くの山並も、そののどかさの原因となっている。牛や馬の放牧も見られないわけではないけれど、私が根釧や日高で見てきたような規模のものは、なかなかない。

 本当に大学くらいしかない大学前駅を過ぎると、もう列車の本数は数えられるほどしかなくなるから、飛ばそうと思えば飛ばせるような気もするけれど、列車は並行する道路を走る観光バスに抜かれようとも、あくまでゆっくりと進んでいった。北上するにつれ、クマザサの生い茂る上にエゾマツやトドマツの生える林の中を列車は行くようになった。地形もそれまでのように平坦ではなくなり、列車は時折田畑を下に見下ろすようになり、森林も次第に深くなってきた。さっきまで遠くに見えていた前方の山々が、列車に近づいて左手に回ってきた。右方の山々も、さっきまでよりよほど近くに見える。それでも風景のメインは相変わらず、広大な水田、荒れ地、牧草地のままで、深い森に入ったとしても、そういう風景に戻るまでにそう時間はかからない。

 浦臼の駅前にはきれいなカラマツ林があり、そして浦臼の駅には材木工場があって、森林資源も豊富な所らしいということをうかがわせている。カラマツは植林されたものであるということをいつだったかに知ってからは、私はカラマツよりもむしろトドマツやエゾマツの方に魅力を感じるようにはなっていたが、こうして見てみるとカラマツ林もきれいなことは間違いなく、やっぱりいいなという気も私はしてきた。

 列車は林や農地、わずかな家並みの間を、あくまでゆっくりと進んでいく。いったんは複雑な地形に足を踏み入れたかとも思われたが、結局は広大な田畑の風景の中へと回帰していった。海側はよく晴れているが、山側はやや霞んで見える。時折停まる駅も、一日三往復しかない区間まで来てしまうと見るからに粗末になり、田圃の合間にホームを渡しただけのような感じになってきた。札幌から同じ路線名でここまできているということが信じられなくなるほど、沿線の様子はがらりと変わってしまった。久しぶりに少しばかり建物が並ぶようになった所に、終点の新十津川駅があった。

 新十津川駅の駅前は広々としているが、あるのは病院とガスタンクくらいなものだ。どうもだだっ広い感じが拭えない。そんなだだっ広い駅前から見ると、駅舎は小屋のように小さい。タンクのおかげでほのかにガスの臭いがするが、通り抜ける風は、さわやかだ。深川駅へ抜けるバスのバス停が、少しだけ歩いた所にある役場の前にある。役場の周りの方が、広い交差点もあるし店もあるし、駅前よりもよっぽどにぎやかな感じがする。

 札沼線自体を目的に列車に乗った人のほとんどが、そのバス停の待合所でバスを待っている。しかし駅前の案内板から、この街に開拓記念館なるものがあることが私にはわかっていた。せっかくこんな所に来たのだからこのままこの街を通り抜けるのも難だと思い、私はそのような流れからは脱離することにした。バスの時間だけ調べて、私は街の中を歩いていった。一応街の中心街と言われる通りを、私は進んでいく。名前が示すとおり確かに道は広いのだが、道沿いの家々はさほど大きいわけではなくて間隙も広く、何となくこぢんまりした感じもある。町役場から離れれば離れるほど、商店というものは少なくなり、家の間の畑も青々としてくる。バス停でいえば二つ戻った菊水町という所に、中央公園というちょっとした庭園のように整備された公園があり、その中に、煉瓦づくりの立派な建物があった。それが目的の、新十津川開拓記念館である。

 記念館の中には、この新十津川という街の発展の足跡が記されている。この街は、大水害にあった奈良県十津川村から、新天地を求めてやってきた大量の移民によって興されたもので、砂金の発見や稲作によってその後大きな発達を遂げてきたが、ことあるごとに離農者も出て、母村とはお互い別々に発達していったのだという。アイヌ民族は結局は追い出された格好になって、和人によって開拓された土地ということになる。明治期以後に開拓され発展した街というのは、それこそ北海道でないとそうそう見られるものではないから、私はここで、集落というものに対して、新たな視点も得ることになった。開拓したのが誰であれ、大きな苦労が伴ってしかるべきであろうが、その苦労をとどめ、しのび、後世に伝えようとする意気込みが、私には感じられた。我々のような種族は、さっきの町役場前でバスを待っていた人々のように、この街を訪れる機会は持っているのに素通りする傾向があるが、こういうことを知る機会を逸していると思うと、あまりにもったいない気も私はする。ここは川村たかし原作の新十津川物語の舞台であり、実は九十年の末にテレビドラマ化されていたという。私はそんなことは知らずにこの土地を訪れたのだが、館内に展示されていた、小学生の読書感想文を見る限り、ここには深入りすれば感動的な歴史が秘められているらしいということもわかった。この原作があれば、読んでからもう一度この街を訪れてみたい。私はそう思うこともできた。この記念館は、その物語の主人公フキの家の跡にあるのだという。

 滝川駅に出るバスには、この公園の前の菊水町バス停からも乗ることができる。バスはさっき歩いてきた広い道を町役場の方へ戻っていく。列車の時間をはずしたおかげで、役場前の待合所からはいかにも鉄道マニアという人の姿は一掃されていたが、既に学校の始まり、家路につく小学生がたくさん乗ってきた。バスは物産館の脇を通って橋を渡り、さらににぎやかな通りを行き、もう一度石狩川の大きな橋を渡ると、滝川の市街へ入っていった。新十津川町は滝川市とは別の自治体であるけれども、実体としては連続しているかのようにも車窓からはうかがえる。街並みはさらに巨大化し、バスはそのまま滝川駅前に入っていった。旅の最初、夜に滝川駅で列車を待っていた時とは違い、昼間だけにやはり、街には活気があるように私には感じられた。

 今日は午後に深川を出る深名線にも乗ろうと思っていたわけだが、このまま深川に出ても時間が余ることになっていて、旭川のラーメン屋で昼食を取ることもできそうな感じだった。その分ゆっくりとはいかなくなるが、私はとりあえず旭川まで行ってしまうことにした。乗った旭川行きの列車は各駅停車だったけれども、電車なので軽快に滝川の街を駆け抜けていく。水田や、何か白く小さな花の一面に咲く畑が、やがて広々と車窓に広がるようになってきた。この見渡す限りの田園を開拓した時、新十津川のように大変な苦労があったのかなあ、と思うとなおさら、そこにはすごい景色があるかのように私には思えてきた。人間が造ったものであって、所詮雄大な自然の中のほんの一部分でしかないのだけど、自然を克服して暮らしていこうとする努力も充分、評価に値するような気も私はしてきた。

 深川付近には街並みが広がり、その後もしばらくはこのような景色が広がるが、やがてさっきまで遠くに見えていた山並みがだんだんレールに近づき、車窓は険しいものになってきた。そしてトンネルをくぐり、列車は山並みの中へつっこんでいく。いくつかトンネルをくぐると、列車は石狩川に寄り添う地帯へ進み、遠くに大きな旭川の市街を望むようになった。この地方の拠点だけあって、遠くからでも大きく見えるほどの巨大な街である。その姿はだんだん大きくなっていき、近文を過ぎて石狩川を渡ると、列車はその巨大な旭川の市街へとつっこんでいった。

 旭川が札幌と並ぶ北海道のラーメンの発祥の地であるということは手持ちのガイドで知ったのだが、その本にあった、五条七丁目の蜂屋という店を目標に定め、私は二度目となった旭川の街へ出た。七丁目の筋は買物通りの方が近いが、私はそこはこの前通っていたので、今日はナナカマド並木のあるという緑橋通りを行くことにした。確かにナナカマド並木はあった。しかしそれは、広い車道の真ん中にあるのであって、歩道を行く人間にとっては、この道はエゾマツ並木である。まあ、同じ緑だから目に入らないのであって、紅葉が完成すれば、ひょっとしたらナナカマド並木を歩いているように感じることもできるのかもしれない。

 問題の蜂屋は、五条の買い物通りを、少しだけ丁目番号が小さくなる方へ進み、細く狭い路地に入っていくとあった。どちらかといえば夜にぎやかそうな通りの雰囲気であったが、そういう一見入りにくい店にもけっこう人が入っているのだから、相当評判が良さそうだと思える。確かに芸能人のサインもたくさん飾られている。中は気取らない大衆食堂のような作りだった。味は醤油味のみのようだが、油っこいのと普通のとで選べるようになっていた。私は初めてなので普通のを頼んだが、思っていたよりあっさり系で、わりと好き嫌いのない感じであるように思えた。今度来る時は油っこい方にも挑戦してみたい。

 食事を終えて店を出て、私は再び街中に出た。この前は気がつかなかったけれど、言われてみれば確かにラーメン屋の多い街だ。昭和通りから三条通りに入ると、夜の歓楽街的な四角い建物の建ち並ぶ街の中に、一つだけ洋風の建物があった。郊外にあるユーカラ織工芸館の別館で、買い物もできるし見るだけなら無料だ。入ってみれば、売り物のさまざまなユーカラ織を見ることができる。財布やらマフラーやら、あらゆる生活用品がユーカラ織でできている。ユーカラ織についての詳しいことは、本館に行けばわかるようになっているのだろう。本館へはここから送迎バスが出ているという。品物を見ると、何の糸を使っているのかはわからないが、糸が太く目が粗く、独特の触感があり、原色系のきつめの色のものもあれば、本当に美しく仕上がっているものもある。アイヌの伝統工芸がこれほどまでにいろいろなものに応用されるということから、アイヌは万人受けするフレキシブルな、それでいて美しい文化を持っていたのだということがよくわかる。しかし見て楽しむだけならよいが、値札に目を移してしまうと、私などもうがっくりきてしまうのだった。何かいいものがあれば買ってもよいかなと思って訪れた所ではあったけれど、これでは本当に見るだけになってしまう。まあ、よいものを見せてもらったし、入館料がわりにと思って、私は鞄にしのばせていた教科書用に小さいしおりを買って帰ることにした。

 そして、この前も通った買い物通りを通って、私は駅へ戻った。昼下がりの大都市はにぎやかで、煙草の試供品を配布する人など、たくさんの営業者も街に繰り出していたのだった。今度は次の目的地である深名線の起点の深川へ、私は向かった。数十分の旅にでも抵抗なく特急を使えるのは、周遊券の強みである。列車はさっき来た道を戻っていく。長いトンネルを抜けて平野に戻り、両サイドの山がだんだん遠ざかっていく風景に、私はのどかさ、そしてさわやかさを感じた。

 私は深川駅で深名線に乗り換えるために下車した。結局駅から外に出ることはなかったが、駅前から見えるまっすぐの通りは、ちょっとしたにぎやかそうな商店街になっているようだ。駅裏の方は丸太が積んであるけれども、特に何かがあるというわけでもなさそうだった。

 深名線は掲示通り、幌加内から先は不通となっていた。後で聞いた話によれば、全線直行かそれに近いダイヤの列車だと、深名線自体を目的とする客で、単行の車内は混み合うそうなのだが、不通の情報が広まっていたのか、車内は半分くらい埋まる程度で、そのような客も私には少数派に見える。学校帰りの高校生ばかりを乗せて、列車は深川駅を出発した。

 深川を出てすぐは、黄色くなり始めた稲穂の垂れ下がる、広々とした水田のまっただ中を列車は駆けていく。そのうち列車は丘陵に近づいていき、広々とした情景は間もなく、クマザサ生い茂る林の風景へと変わっていった。林を構成する木は、ミズナラや白樺、イタヤカエデやナナカマドで、この辺りでは不思議と、松の木は見あたらない。

 上多度志の辺りでは、深く切れ込む川が車窓に現れ、河岸段丘上に田畑が広がっている様子がよくわかるようになってきた。両側をそんな段丘に囲まれた、のんびりした田畑が広がる中を列車は進んでいく。ここに限らず水田がある所では時々、大きな熊でも歩いたかのように、稲が固まって倒れていることがある。ここでもそういう所が所々あったのだが、あれはどうやってできるものなのだろう。時折林の中に入るも一過性で、またもとののんびりした風景に戻り、列車はゆっくりと歩んでいく。この辺りの駅は宇摩のように、列車の半分くらいの長さのホームしか持っていない。お世辞にも駅とは言えないようなものや、下幌成など、その上さらに列車が停まると踏切を塞いでしまうようなものまである。こういうアバウトなところが、いかにも地元の人間しか知らないローカル線といった風情を醸し出している。

 そのうち列車は高台の林の中を行くようになり、時々林越しに低地の田畑を見下ろすことができるようになってきた。山の間という囲まれた中にではあるけれど、高台からの広々とした見晴らしが、左側の車窓に広がる。右側にはひたすら森林が広がる。この辺りまで来ると、松の木も皆無ではなくなった。しかしまだ高い方にある少数派でしかないようにも、私には見受けられた。

 やがて列車は長いトンネルに入り、それを抜けると林越しに沼の姿が目に入ってきた。よくよく見たら、ダムであるらしい。私がこれから寄ろうと考えている朱鞠内湖もダム湖だそうだから、この辺りは水源地となっているのだろう。やがて列車は林を抜け、辺りには畑が広がるようになった。何の花かよくわからないけれど、白く小さい花が辺りに密生している。稲の姿もないことはないが、割合としてはかなり小さくなってきた。線路を囲む樹木も、シラカバや松がだいぶ優勢になり、沼牛という集落で足を止めれば、吹き込む風は心なしか冷たくなっていた。あの長いトンネルは、ひょっとしたら道央と道北の境を示すものであったような気も、私はしてきた。

 沼牛を過ぎてからも、列車は謎の白い花が咲き乱れる林の中を進んでいく。花の軸が赤いのがその花の特徴である。本当に何なのだろう。友人が持っているような知識が私にあれば何でもないことなのだが、私はとてももどかしい気持ちになっていた。列車は平野の中へ戻り、当面の終着の幌加内に着いた。ここから先は代行バスに乗り換えとなる。広い公園や多少の建物はあるけれど、例の白い花もたくさん咲いている。前方の山には灰色の雲がかかっている。

 バスを待つ間、私は謎の白い花のことを、幌加内の駅員に尋ねてみた。それは蕎麦の花であるという。なるほど、あれが、あれほど身近な蕎麦のもとであったのだ。私は目から鱗が落ちたかのようなすっきりした気分になることができた。助役の帽子をかぶった駅員は得意げに、「ここの蕎麦は、世界一とは言わないけど、日本一なんだよ」と語った。こんな所に蕎麦の産地があったとは、私は知らなかった。幌加内なんて、こんなことがなければ訪れることのない駅であるけれど、そのおかげで私は、未知なるものを発見するという旅の醍醐味を確かに得ることができたのである。駅前に細い道が通じるが、見える店は一軒の食堂のみである。小さな街だが、その食堂も堂々と「生そば」ののれんを下げる。今度ここを訪れることがあったなら、絶対に蕎麦を食っていこう。私はそう心に決めた。もっとも、それまでに深名線が残っているかどうかという心配もあったけれど。

 間もなく駅前広場には、観光バスのようなきれいで大きなバスがやってきた。JR北海道が自前で用意したバスで、皮肉なことに今まで乗っていた列車より数段デラックスである。しかしバスが大きいわりには、車内の席がさほど埋まらないのが寂しいところだ。わずかな客と、車掌に相当する職員を乗せ、バスは発車する。幌加内の小さな市街を抜けると、バスは田圃や、覚えたての蕎麦畑の中の国道を進むようになった。道路の端には、「蕎麦の街幌加内、生産味覚日本一」とNTTの看板が主張している。こんなことがなければ知らずに帰っていたかも知れないことを、看板が気にとめさせてくれる。

 線路も近いことは近いが、その様子はバスからはよくはわからない。しかし、列車代行バスの使命として、バスは駅の至近にまで寄り道をし、客を拾うことを試みる。どんなに細い路地でも、国道に戻るのに支障がない限り、駅まで近づき、そして車掌が待合室まで走っていく。しかし待合室には誰もおらず、空しく駆け戻ってくる……。

 こんな所ではしょっちゅう駅があるというわけではないから、時折このような空しい風景になるけれども、バスは概して前進を続ける。やがてバスは登り坂に入り、エゾマツやシラカバの林の中を行き、下に川の流れを見下ろすようになってきた。道路の脇や川岸には、何本か木が倒れているのが見える。恐らく復旧したばかりであろうこの道路も、泥をかぶったような色をしている。バスは最も被害の大きかった地帯を進んでいるかの様相を、車窓に呈してきた。空は晴れてはいるけれども、前方の山には雲が厚くかかっている。やがて道は高度を下げ、川面の近くを通るようにもなってきた。確かに何本もの木が倒れているし、線路際にも地滑りの跡が見られる。地滑りは土嚢を積んで復旧しており、実際どのような状況だったのかは既にわかりにくくなっている。しかし大量に積まれた土嚢や、倒れた木々は、きっとすごい水害だったんだろうなという想像を、私に容易につけさせてくれる。

 政和辺りを過ぎてしまえば、最も険しかった地帯は越え、やがてまた、蕎麦の畑や小さな草原の中の風景へとバスは戻っていった。車窓から一面に広がる蕎麦の畑を見ていると、すごくきれいなものが見られたような気がして、私はとてもうれしくなった。どうやらいい時期にこの地を訪れることができたようだ。いつになるかわからないけれど、今度ここに来るときは絶対、ここで蕎麦を食べていこう、と私は改めて心に誓った。

 山にかかる黒い雲を気にしつつ、バスは引き続き歩みを進めた。白樺の木が疎らに生える草原や森林、また蕎麦などの畑の広がるのどかな風景が、車窓に繰り返される。そして車窓に小さな集落が現れたとき、バスはまた路地に入って駅へ寄り道をする。時折立つ看板には、幌加内町の「最寒のロマン」という宣伝文句も見られる。そういえば、日本の最低気温を出したのは朱鞠内と私は聞いている。バスは朱鞠内の方角へ舵を取る。蕎麦畑に沿いつつも、だんだん森林の姿も多くなってきた。共栄を通過し、朱鞠内へ近づくにつれ、風景はいよいよ山深くなり、トンネルも現れるようになってきた。そしてまた道が平坦になり、前方に比較的大きい集落が現れると、終点の朱鞠内も近い。道筋に沿うところだけに店が建ち並ぶ小さな街の風景の中、バスは朱鞠内駅に到着した。

 朱鞠内の駅舎をのぞいてみると、時刻表には上下それぞれ三本の列車しか書かれていない。廃墟となった根室標津でさえ、放置された時刻表に記載された列車はこんなには少なくなかったように記憶している。その上鉄道があんな状態だから、なおのこと寂しいのではないかという想像も、私には容易についた。私はとりあえず、次の列車までの空き時間で朱鞠内湖を訪れてみることにした。列車が正常ならば時間的にはかなり余裕があるのだが、今回はそういうわけにはいかない。しかし行くだけ行ってみることはできそうだったから、あまり期待しないで行ってみよう、と私は思った。

 私は朱鞠内湖に向かって歩みを進めた。市街地は程なく途切れ、幅の比較的広い道は、森林や草原に囲まれるようになった。最寒の地たる所以かどうかはわからないが、日陰に吹く風は冷たいほどだ。道は軽い峠のようになっている。下り坂にかかった所で湖の展望が開けるのかと思いきや、そんなことはなかった。見えるのはさほど遠くない堤防まで広がっている湿原で、湖はずっと高台にあるのだ。橋の下には朱鞠内湖から流れ出る朱鞠内川が流れ、水害のせいか湿地のヨシがすべて同じ方向になぎ倒されている。川を越えると間もなく湖畔駅がある。朱鞠内湖へはここからまた坂を登っていく。さっき見えた堤防の反対側に当たる湖への到達路は、最後には階段道になった。私は一段一段踏みしめて登り、最後の一段を登りつめたとたん、目の前には広々とした湖の水面が広がった。

朱鞠内湖 地図で見ても複雑な形をしている朱鞠内湖だが、こうして見てみると湖岸線は確かに入り組み、そのせいで微妙に太陽光の当たり方に差が出て、周りを囲む山が浅い緑や深い緑の部分に分かれ、とてもきれいに見える。夕暮れ近いため、その対比はさらに極端になっていて美しい。湖にはかつての丘という島がたくさんあるというが、それは湖の展望台からでははっきりわかるのが一個だけで、あとは湖岸と一体化しているように見える。

 時間のないプランになってしまったおかげで、ちらりとかいま見ることしかできずに去らねばならないのは少し惜しい気がしたが、私はここをいい時間に訪れることができたような気がした。人影もほとんどなく、瞑想に耽るにはとてもよい場所であるように私は思う。湖面はきらきらと光り、明暗のコントラストは美しい。あまりゆっくりできなかった代わりに、幌加内のそばというものを発見することもできたのだから、もっとじっくり見ていくのは今度来たときでもよかろう。私はそう思いつつ、階段、そして坂を下り、来た道を湖畔駅まで引き返した。

 湖畔駅は小さな待合室しかない駅だったけれど、一応見どころがあって人も来ないわけではないせいか、その壁は落書きコーナー的になっていた。落書きといっても品のないものばかりではなく、見ていると何となく、ここを訪れた人が純粋にそれぞれ作っていった思い出を残したのだなということが伝わってくるような気がした。そんな小さな駅にやってきた小さな列車に乗り込み、私は旅を続けた。

 列車はシラカバやダケカンバの深い林の中を進み、時々トンネルにも入る。湖面はあまり見えないが、人工建造物の姿も車窓にはほとんどない。時々、ダムに流れ込む川が激しく線路の下を流れ行くくらいのものである。駅になるほどの集落も現れないので、列車は走り続けるしかない。二十分くらいそのまま進んだ頃、ようやく車窓に湖の姿が大きく現れた。湖というよりは湿地に水がたまったような感じで、枯れて白くなり折れた木が何本も立ち、周りをヨシが囲んでいる。海水と淡水の違いはあるが、荒涼さはトドワラを彷彿とさせる。林越しに湖がちらちらと見える風景が続き、川が湖に流れ込む所では、車窓には大きく湖の姿が広がった。さっきの展望台から見たように爽快な風景というわけにはいかないけれど、こういう湿原になりかけのような風景は、展望台からは見えなかった。こっちはこっちでいい景色だし、一つの観点から見ただけですべてを見たような気になるのはおこがましいと思えるほど、いろいろな姿を朱鞠内湖は見せてくれている。

 撮影場所でもあるのか、北母子里からはカメラマンが乗ってきたが、列車は相変わらず森林を行く。しばらく進んでいくと、林の切れた合間から、かなり遠くの下の方に街並みが見えるようになってきた。どうやら今までかなり高い所を走っていたらしい。今まで重いエンジン音をうならせていた列車も、心なしか軽快に走るようになっていった。そしてようやく列車は、草原やカボチャ畑、タマネギ畑などの広がる山間に戻ってきた。駅の間隔も短くなり、今までの道のりが長かっただけに、ビートもトウキビもレンゲの草原も水田も、私にはとても青々として見えた。そしてここにも蕎麦畑が……。見るのに夢中になり、私は一面蕎麦の花の咲く写真を撮るのを忘れていた。今日のこの旅は、次回の宿題を多く残すものになっていったような気がする。やがて列車は、さっき遠くの方に見えていた街並みの中へ戻り、家並み、そして煙突が煙を上げる工場の建ち並ぶ、名寄の市街に到着した。駅裏すぐ近くに、緑色した山が列車を出迎えていた。

 名寄の駅前には大きな通りが走り、その両側に商店街が広がる。そして駅からその通りに至る道も広いから、街はかなり広々として見える。しかし時間的なもので閉まっている店も多く、規模のわりには閑散としている。駅前の三星食堂という所に、私はしばし落ち着いた。ここでは六百五十円でちゃんとした定食を食べることができるし、雰囲気的にもゆっくりできる。テレビには札幌のきれいな夕焼けが映し出された。北海道では朝夕だいぶ涼しくなったとテレビは言っている。改めて認識するまでもなく、確かに本州の夏のスタイルである私の格好では、歩いていて寒ささえ感じることが北海道では珍しくないのである。それにここでは、真夏日ではなく夏日が三十二日続いているということでさえニュースになってしまうのだ。海水浴シーズンは終わったとも言っているし、この地はどうやら私の暮らす土地とは季節の巡りが違うらしい。

 食後、乗ることにした列車までまだ時間があったので、私は名寄の駅前に出てみた。夜風はやはり、冷たい。名よせ通りという商店街へ、私は入っていった。街灯はつき、やっている店はやっていて、雰囲気はさほど暗くもない。おしゃれな食事屋もあるし、和光をまねたのか、おしゃれな時計台を持つ店もある。アーケードには絶えず管弦楽が流され、歩いているだけでおしゃれな気分になれる街だという印象を私は受けた。果たして昼間来たら、この街はどんなふうに見えるのだろう。

 私は、宿となる上りの夜行でゆっくりする時間を長くするため、できるだけ下っておく作戦をまた実行することにした。私は名寄駅にやってきた下りの急行サロベツに乗り込んだ。風景は既に闇の中で、遠くの方に灯りが点るのがかすかに見えるのみになっていた。外に何も見えないものだから、私は退屈するより他になかった。いい加減観光ガイドも読み飽き、煙草の吸い殻だけが増えていく……。ふと見た満月が、とてもきれいだった。そういえば名寄で見えた月は、朧月だった。そんな幻想的な風景が私を眠りに誘いかけた頃、列車は幌延に到着した。ここで降りておかないと、上りの夜行に乗ることはできない。

 幌延駅は夜間は無人で、畳もあるし、その気になれば一晩過ごすこともできそうだ。灯りはついているが、建物の中に人がいるわけではないから雰囲気はひっそりとしている。ただしそれは、人が全くいないということを必ずしも意味しない。こういうタイプの駅は、地元の若者達のたまり場になるのである。灯りはついているからたむろしやすいし、酒を食らっても煙草を吸っても、とがめる人は誰もいない。昼間の見どころは、フィールドアスレチックやトナカイ牧場、ペンケ沼パンケ沼など多そうで、無料のレンタサイクルなんかもあったりするようなのだが、夜はといえば何があるわけでもなく、駅前の小さな商店街をふらついてみても、開いている店はスナックぐらいなものだった。ここも是非昼間に来てみたい街である。

 夜も更けようとする頃やってきた上りの利尻に、途中駅からながら余裕で席を取り、私はしばしの眠りについた。


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