0.プロローグ(8.1) / 1.函館(8.2) / 2.旭川・富良野(8.3) / 3.知床(8.4) / 4.標津・野付半島(8.5) / 5.支笏湖(8.6) / 6.小清水・網走(8.7) / 7.サロマ湖(8.8) / 8.札幌(8.9) / 9.屈斜路湖・摩周湖・釧路湿原(8.10) / 10.室蘭・昭和新山・洞爺湖(8.11) / 11.稚内(8.12) / 12.利尻(8.13) / 13.礼文(8.14) / 14.サロベツ(8.15) / 15.根室(8.16) / 16.新冠・襟裳岬(8.17) / 17.厚岸・霧多布(8.18) / 18.阿寒湖(8.19) / 19.札沼線・深名線(8.20) / 20.大雪山黒岳・層雲峡(8.21) / 21.小樽(8.22) / 22.積丹(8.23) / 23.函館・大沼(8.24) / 24.エピローグ(8.25-26)
朝になり、食堂に入って、窓からふと外を見ると、まるで遠くにそびえる山脈のような黒い大きな島影が、私の視界に入ってきた。どうやら逆光の関係になる朝の方が、ここからは国後島がよく見えるのだろう。東京に住む限り、他人事のような目で見ざるを得ない北方領土、それ故とても遠くにあるような錯覚を抱きがちだけれども、それは決して遠いものではないということを、私は実感することができた。もちろん空も快晴で、今日もまた暑くなりそうだ。ただ、朝早いYHの館内は、まだ至って涼しい。
身支度をしてYHをあとにし、すぐ近くのバス停でバスを待っていると、街中にけたたましく、夕焼けこやけの赤とんぼのオルゴールが流れてきた。見ていると、その音を合図に、道路に面する家々の人が、軒先にゴミの入ったポリバケツを出し始めたのである。オルゴールの音源は、やがてやってきたゴミの回収車であった。ここのゴミ出しは、こういう個別回収のシステムなのである。ここの人にとってはこれが普通なのだろうが、ステーション式のゴミ回収しか知らずに育った私にとっては、こんな些細なことにさえも、旅情をそそられるのであった。
私は今日はまず、バスで海岸沿いに南下し、野付半島を目指していくことにした。バスは、右に崖、左は海にはさまれた狭い土地に長く発達した羅臼の街を通り抜けていく。快晴の薄青い空と濃い青の海との境が、水平線となってはっきりと見て取れ、国後の島影が、白い羽衣をまといながらもとてもきれいに見える。こう言っては語弊だらけだと思うけれど、私にとって初めて目にする「外国」の土地として、また特別な感情を伴って見えてくるのも事実である。海にはブイや漁船がたくさん浮かび、海岸にはたくさん昆布が干されている。
市街地を抜けるとバスは海岸を離れ、高度を若干上げて原生林の中を進んでいくようになった。ダケカンバの林、その向こうには山、目前の下り坂の向こうの遠方には海……。ここにも、北海道と言って想像する風景に近い、きれいな風景が確かにある。
バスが再び海岸線に降りると次の集落に入っていき、再び離れると原生林の中へ行く。羅臼町から標津町に入っても、しばらくはこの繰り返しであったが、右側の知床の連山が遠くなるにつれ、道も国道をまっすぐ行くのみというわけでもなくなり、バスはより海沿いにある集落にまで入り込んでいくようにもなってきた。いつの間にか山はだいぶ遠ざかり、目前の林を取っ払ってしまえば、すがすがしいばかりの大草原になりそうな感じだ。
こうして走っている羅臼町にしろ標津町にしろ、道の至る所に、「返せ! 北方領土」などのそういう類の看板を目にすることができる。ここの人々にとって、この問題は最前線であるのだから、我々よりは格段に意識は高いのだろう。そうしてこういう土地を旅する私も、わずかながらその気持ちを意識せざるを得ない。それにしても、「イチャンカリカリウス遺跡」などという耳慣れない響きの地名が連続すると、私は国境の街と言うよりもむしろ、外国の街へ来たかのような感じさえ受けてしまった。周囲は平野も開けるようになり、標津川を越えると完全に街の中へと入っていった。
バスの終点の標津バスターミナルでは、窓口でレンタサイクルも取り扱っていた。目的地まで距離はありそうだったが、どうせなら、地図の上でも特徴的な砂州の形状をしている半島の上に一本芯のように走る道路を、そのまま行ってみたいと思い、私は自転車を借りることにした。
私は自転車を野付半島方向に漕ぎ出した。国道沿いに連なる街並みはだんだんと疎らになってきた。野付分岐からはひたすら、走りやすい道を進んでいく。左側はわりあいすぐ近くに海が見え、その向こうには常に国後の島影が控えている。右側は畑だったり馬の放牧地だったり湿原だったりが繰り返され、ハマナスの姿も至る所に見られる。時々ある建造物は漁民の番屋だったりつぶれた食堂だったりで、ひとけのある所であるとは言えない。寂しいと言えば寂しいが、騒々しくないのどかな雰囲気は、とても居心地がいい。そんな中をひたすら、私は自転車を進めていった。
やがて右側は、ナラワラという枯死木群となっていく。湿地の上には立つ木の間隔も疎らで、木の色もむしろ白く今まで見てきた原生林とは明らかに違って見える。そして標津を出てから一時間十五分ほどした頃、周囲には突然人と車がたくさん現れた。野付レストハウスであり、ここがトドワラやこの辺りの原生花園を巡る遊歩道の入り口となっていた。車道はさらに奥まで続いているようだったが、とりあえず通行止めの看板と鎖に阻まれている。これより先にも行けないことはなさそうな気もしたが、無理に行かずとも見どころはありそうだったので、私はここに自転車を置き、歩いて遊歩道に入っていくことにした。
遊歩道はしばらくは原生花園の中に延びていた。私は背丈のそんなに高くない草むらの中を縫うように歩いていった。周りじゅう草だらけで、他のものは遠くにしか見えない、だだっ広い感じがここにもある。緑色の草むらの中には、ハマナスの花や、何かはわからないが紫色の花が、とてもきれいに散らばっている。
そんな原野を抜けると、枯れた木が寄り添っているモニュメントがあり、そこからがトドワラのエリアであることを示していた。トドワラは、トドマツの森が海水の浸食で枯死したもので、真っ白に枯れて倒れ、既に数も疎らになってしまった木には、原生林で見られるようなトドマツの面影はない。ただ、近くに海水の侵入を免れて生き残っているトドマツのおかげで、倒れている木もトドマツであるらしいということがわかる。その場の解説にもあったように、浸食が始まってからだいぶ時間が経ってしまっていたから、木が枯死しているとは言っても、思ったほどだくさん倒れているというわけでもなく、だいぶ風化されて、跡さえもなくなりつつある状況であって、むしろさっき通り過ぎてきたナラワラの方が、絵的にはダイナミックなような気も私にはした。まさに栄枯盛衰、盛者必衰、諸行無常なのである。枯死したトドマツの下には、確実に濃い緑色の植物が根づき、新しい生命が生み出されている。その一方では枯死によって生まれた湿原が広がり、いかにも荒涼とした風景が醸し出されている。対岸の尾岱沼からの遊覧船の船着き場はこの辺りにあり、長い半島を通らずとも、海からダイレクトにトドワラのエリアに入れるようだ。
荒涼とした湿原、だだっ広い原生花園を引き返し、私はレストハウスに戻った。観光馬車も運行されていて、人は多いけれど辺りはのんびりした雰囲気だ。レストハウスではウニ丼という文字にそそられながらも、私は結局磯ラーメンに日和っていた。まあ生来の味音痴で微妙な味の違いはわからないけれど、乗っていたエビには確かに縞があった。この辺りの海で取れるらしい北海シマエビであるらしく、そんなものを食べることができたという満足感に、とりあえず私は浸ることができた。また売店に「こめちち」という怪しげなネーミングの飲み物があった。別海町営牧場製で、牛乳ときらら397からできているという。試しに飲んでみたが、一見ミスマッチな組み合わせからのイメージのわりには、そう変な味でもない。例えるならカロリーメイトをゆるくしたような味で、悪くはない。
私の習慣として、ここでも友人に暑中見舞いなどしたためたのだが、売店の人にポストはどこかと聞くと、尾岱沼か標津に行かないとないという返事が返ってきた。尾岱沼は船でないと行けない、標津は自転車で一時間強。私はひょっとしてすごく恐い所に来たのではないかという気にもさせられた。気候も、いい天気で日差しは強かったが、風が涼しくTシャツでは肌寒ささえ感じるほどで、何よりも感動的だ。東京にいたならまず味わえないことだろう。
レストハウスのそばにある防波堤からは、ここまで来ればあと何十キロもないという国後島の姿がはっきり見えて、しばし立ち止まってゆっくり眺めていく観光客も多くいる。私はそんな風景をあとにして、ふたたび野付半島の道道を引き返した。何もないのどかさは変わらないけれど、風がもろに向かい風になってくれたおかげで、時間はかかるわ疲れるわ。本当なら標津まで来るバスの中で見つけた変な名前の遺跡公園にも行ってみたかったのだが、私はすっかり疲れてしまったので、自転車を返してしばらくは、バスターミナルの周辺を散策するにとどめることにした。
バスターミナルからすぐの所に、旧標津線の根室標津駅が残っていた。遠目に見れば、駅名を示す大きな文字が四角い駅舎の上に堂々としていて、現役の駅のように見えないこともないのだが、近づいて見たそれは、完全な廃墟であった。ドアなどは木で固定され、建物の内部は外からうかがうのみであったが、廃止当時の発車時刻表や切符売り場等の施設はそのまま残っていた。しかし当然、ひとけは全く感じられない。駅舎の脇からホームに入ることを止める物体は存在しなかった。レールがあったであろう場所は、既に完全な草むらとなっていた。この駅舎がこのままになっているのは、何か意図があってのことなのだろうか。ぼろぼろになったままの駅舎、そして放置された二両の気動車に、哀しさが漂っている。
ついで私は、駅近くにある北方領土館に入ってみた。小さいわりにはよくできた造りで、在りし日の択捉島の街の写真や、動物のはく製、そして望遠鏡があって、それらの島々の近さを実感できるような仕組みになっている。望遠鏡からは、本当に手に取るように、対岸の国後島の姿を見ることができる。もし海岸に人がいたら、その姿も見えるのではないかと思えるほどの近さである。近いということと、それが我が国の領土であるということは、等価ではあり得ないことであるが、かつてそこに住んでいたことのある人々にとっては、ふたたび行きたくても思うに任せない場所として、特別な感情を伴って映るものであろうということの察しは、私にでも容易につけられた。
やがてバスターミナルがにぎやかになり、私もこの標津の街を離れることになった。今夜は夜行暮らしにすることは決めていたので、とにかくJR線の駅を目指すことにしたが、最も安くつくルートを取ることにした。そのためにはまず中標津に出ることになるが、今度出る標津線転換のバスよりも、一本待った国道経由の方が中標津に早く着いて余裕のある乗り換えができることがわかったので、私はそうすることにした。一日太陽の下で自転車を漕ぎ続けたために、腕が日焼けしてひりひりするのを感じながら、私はバスに乗り込んだ。
バスはさっき自転車で走った市街地を軽快に走り、そして内陸部を目指していく。あまり人の手の入ってなさそうな原生林の中をバスは進んでいく。背丈の低い草の広がる牧草地も、時折車窓に現れ、山並みをバックに広々とした風景が広がる。これで牛でも放し飼いになっていれば、完全に北海道らしい風景になるのだろう。西八線、西九線などという、交差点ごとに続くバス停をやり過ごしつつ、バスは走っていく。沿線にはジャガイモ畑も見られ、この時期、ちょうど花盛りである。緑の中に白い花の点がちりばめられている感じは、なかなかきれいなものだ。
そのうちバスはまた市街地に入っていき、車窓からも中標津が近いことがうかがえるようになってきた。市街地とは言っても空き地は多いし、比較的緑も多い。だが、マツヤデンキや東京靴流通センター、長崎屋とか宅配ピザ屋などという都会的なものも見受けられ、案外進んだ街なのかもしれないとも私には思えた。さすがは空港の街、ということなのだろうか。
バスは終点の中標津バスターミナルに到着した。おそらく廃線跡を利用した、ロータリー程度の大きさではあるがバス専用レーンまでもが設けられ、「交通センター」と銘打たれているだけのことはあるなと思わせる。待ち時間はわずかだったが、私はとりあえずターミナルの建物を探ってみた。ここに来るバスは阿寒バス、根室交通の他に町有バスもあり、まさに交通の要といった感じがある。空港があるせいか、ANKの営業所までもがその中に入っている。そして、展示室として、標津線の遺品が展示される一角も設けられていた。ここは明らかに、永遠に人々の心の中に標津線を残すためのものであり、さっきの根室標津の駅舎のように、崩れゆくものの象徴という意味合いは恐らくない。お互い形態の違うメモリアルであるということも、できるような気がする。
間もなく発車となる、厚床行きのバスに私は乗り込んだ。程なく中標津の街を出たバスの車窓には、再びのどかな風景が広がった。まるで新じゃがチップスの宣伝にそのまま使えそうな感じの、ジャガイモの花咲く丘の風景や、広々とした牧草地でたくさんの牛がのんびりと牧草を食むなどといった、それは広々としたのどかな、いかにも北海道らしいといった感じの風景であった。たまには小さい集落といった感じの市街地にも入るけれども、この路線沿線は大概、牧草地である。標津線がもし残っていれば、その車窓からもこういうのどかな風景が楽しめたのだろうか。周遊券の利用者にとって、標津線の廃止は、実費の負担という形でのしかかっている。
別海町に入ると、何とかという小学校まで七キロという看板が見られた。看板があるということは通っている子がいるということなのだろうか。七キロといえば大人にとってもかなりの距離である。北海道では「隣」という言葉の距離感覚が違うとよく言われるけれども、私にはいくら何でも恐ろしい気がした。また、実際に走っている姿を見ることはなかったが、別海町にも町営バスがあるらしいことが、バス停の存在から伺い知ることができた。街の中心から尾岱沼へ行く便もあるらしい。同じ町内だからあってもおかしくはないと思うけれども、使えそうな路線なのに我々の使う時刻表に現れないのが惜しい。
まだまだ沿線には北海道的なのどかな風景が続くのに、車内放送は唐突に、次は終点であることを告げた。私の経験では、次が終点というアナウンスが入る頃には、車窓には都市化の傾向が現れるのが常だったので、意外な気がしたけれども、実際そうして到着した厚床は、確かに小さな街だった。というか、道の行き詰まりに駅があるだけで、その周りに申し訳程度の家並みがあるのみ。駅舎はそんな家並みに対しては異様にきれいだが、小さい。昔は鉄道の分岐点だったというのに、こんなに何もない街だとは思わなかった。食事屋もあるにはあるが、やっているかどうかわからず、私は少しばかり歩いた所に見つけた売店で、売れ残りの弁当を仕入れた。見た感じ道は広々としているのに、というかそれだからこそ、あまりに寂しい街であるように私には見えた。漂う牧草の匂いだけが、私の心の慰めとなってくれる、何もない街である。
列車の時間まではしばらくあったけれど、こういう街だから、見て回るにも時間が余って、仕方なく私は待合室に座っていた。すると、そこに同じく座っていた、孫を連れたおじいさんが私に話しかけてきた。彼は私が東京の人間であるとわかると、「うちにも東京の高校にいた孫がいたけど中退して、今日大検を受けに行った」と語ってくれたり、独り旅の途上であることがわかると、「この前京大の学生をヒッチハイクで捕まえた」だとか、楽しそうに語ってくれる。彼曰く、「こんな所にいると馬鹿になるよ、何も考えることがなくなるから」と。実は昔教員をやっていたとかの、なかなかのインテリじいさんだったりしたわけである。私としては、何も考えなくていい生活なんて理想的だわ、とも思うのだけれども、彼も彼なりに若者の人生を憂えてくれているのかもしれない。
そうやってじいさんと盛り上がっているうちに、外は日が暮れてきた。外の空気は寒いほどで、私は思わず長袖のシャツを羽織っていた。乗り込んだ列車は、夕暮れの中を走っていった。バスから見えた、のどかな風景の続きのような車窓をしばらく楽しむことができたが、間もなく車窓には何も見えなくなった。明日はどっちへ行こうか……他にすることもなく、私はそんなことばかり考えていた。
列車は夜の釧路で終着となった。釧路は上りの夜行列車おおぞらの始発駅であることから、今日の旅はここで一段落となる。習慣として改札は列車別であるため、早めに着いた夜行列車の客たちは、改札口の前に列を作る。九時の段階でもかなりの長さだ。とりあえず大きなザックに順番を取ってもらって、私はふらりと夜の街へ出てみた。釧路の街にはホテルやビルが建ち並ぶせいか、こんな時間でもにぎやかなように見える。今日は何か祭りをやっていたようで、一段と明るく見えるのである。昼間明るい時に来たなら、いったいどんなふうに見えることだろう。それにしても東京の人間にとって、この道東、釧路は呆れるほどの涼しさだ。夏なのに、室内より屋外の方が涼しいのだから……。ここで私は強い体の変調を感じることとなった。昼間強烈に日焼けしたおかげで、両腕が激しい痛みに襲われたのだ。私はこんなにも肌が弱かったのか……。その事実に気がついたのは昨年のことだったけれど、子供の頃は全然平気だったということを考えると、ただ狼狽するしかない。
やがて夜も更け、今夜の宿おおぞら十四号の改札が始まった。自由席は一両しかないわりにはそんなに混んではおらず、少なくとも並んでさえいれば座れるものであるらしい。おかげで今夜も安眠である。夜行列車で飲むビールの味は格別だ。