山口・山陰(2001.8.2-19)


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 この旅で私があえて福知山に宿を取ったのは、忍たま乱太郎という漫画・アニメの原作者や女性ファンが集って忍術の腕を競うくノ一忍術大会が毎年この地の福知山城で行われているらしいということを聞いていたからである。別にそのイベントに参加したり見学したりしようと思ったわけではなくて、場所だけでも訪れられればと思っていただけなのだが、朝のローカルニュースは、そのイベントが昨日行われたと言い、画面にはくノ一たちの奮闘や原作者の姿が映し出されたのである。さすがに私は悔しい思いを禁じ得なかった。

 私はとりあえず、広く開けているけれどまだ目覚め前といった感じの、それでも暑さだけは確実に始動しはじめている街並みへと歩き出した。駅から街並みを10分も歩けば、市役所の近くに福知山城が見えてくる。周囲は公園としてはよく整備されている感じだが、視界を固める石垣が新しすぎるような気がするのが気になった。説明を見ればこの城は明治維新で廃城になったあとごく最近、昭和61年に再建されたものなのだという。園内を歩けば石垣は真っ白のいかにも新しいものだったのが、外形だけはきちんとしているけれどよく見ると不揃いな石が荒々しく積み重ねられている古そうなものへと変わる。その、わずかに残されていた昔ながらの石垣の上に、建物を再建したものだということらしい。土壁も木も、古そうに見せかけて実は単なるクレオソート色だったりするのだけれど、壁に小さく開いた四角や三角の狭間は、それなりに現物に忠実にしていることを示しているのかなあなどとも思ったりもする。開館は9時でまだ開かず、昨日はここでくノ一達が石垣を登るのを尼子先生が見守られていらっしゃったのかもな、と思いながら、私は堂々とした天守の乗る荒々しい石垣の前のベンチに腰を下ろした。

福知山城の石垣 古くから残っている部分の石垣の石は自然石だそうで、緑やら赤やら茶色やら、いろいろな色が認められるが、よく見ると中には寺の灯籠の一部分だったと思われる形のものなど、人工的な加工のあとを示す石がいくつか含まれていた。大きな石の隙間は小さな石で埋め尽くされ、一見乱雑に積まれているようにも見えるが、それでも巨大な建造物を支えるための一つの立派な手法なのだというのだから、おもしろいものである。乱雑な石垣は織田信長の城の共通した特徴らしい。

 乱雑な石垣の中に含まれる一つ一つの石を注視することを繰り返していたら、開館の時間がやってきた。城の建物の中には別に古さを表現しようとしている部分はなくて、むしろ再建は再建と割り切っているのだなあと感じさせ福知山城からられる、潔いまでの現代風の内装だった。中の展示は古代から現代に至るまでの福知山の歴史の紹介ということになる。そして、一番上まで登れば、福知山の市街地を眺めることもできるわけである。城下の方面には、外縁は別としても城に近いほうには案外瓦屋根の建物が残っていて平野を埋め尽くし、すぐ外側を山並みが取り囲む。一方には音無瀬橋という白いアーチの架かる広々とした流れの由良川が流れ、その対岸はのどかな田園地帯となる。そして当然のように、吹き抜ける風は至って涼しい。

 私は城をあとにして、市街に接する川沿いの堤防の上へと歩みを進めた。街なかには瓦屋根の古めかしい建物の並ぶ通りが至る所に確認でき、広小路にはひときわ賑やかそうな商店街が広がり、御霊神社などが道をふさぐかのように広小路の真ん中に鎮座していて、一見不思議な感じを受ける街の景観を作っている。新旧の建物が入り乱れる商店街の一つの店であるかのように、鉄道の街らしく「ポッポランド」という資料館も存在する。そんな、いろいろな細い路地が様々に交錯する街並みを、その中に含まれる古い建物が作り出す味わいを感じながらあてもなく歩いていくのも、また楽しいものだ。たとえアーケードがついていても古い建物は古いわけで、この福知山という街はそんな独特の古さを感じさせてくれる街なのだなあ、と私は思いながら、駅へ戻る道を歩んでいったのだった。

 福知山駅からは、山陰線の起点である京都駅までの距離を縮めていく列車にしばらく身をゆだねることになった。福知山城のそばを通り過ぎた列車は再び、田園風景の中を進むようになった。私はこの区間にはまだ電化されていなかった頃に乗ったことがあるはずだったが、黄緑からもはや黄金色といってもよいくらいの田圃に囲まれた車窓を見ていると、何となく初めて乗った路線のような新鮮な感じがしてきた。やがて綾部を過ぎると、また線路と山間との間隔が狭まってくる。窓の下を流れる川はごつごつした河原を持ち、釣り人もたくさんいる。そんな川に削られたのであろう、黄金色の段丘を列車はひたすら進む。太陽は谷間を明るく照らし、山の隙間を埋める水田は、より明るく輝く風景を作り出す。

 のどかな田園風景を進む列車は、いくつかの駅で長めの休憩を取っていく。8分停車した安栖里は、田圃が平野から山の斜面の中腹にまで広がるのどかな農村だった。駅近くのグラウンドでは、少年野球の試合が進行中だ。よくある普通の風景だけれど、なんとなく貴重な風景であるかのような感じを私は受けた。この街にある道の駅は「和」(なごみ)と言うらしい。そのネーミングが妙に似合う、和みの田園風景が、周囲を埋め尽くす。続いて知和という駅でも列車は少し停車した。山野草の森という園地があるそうだが、このままでも充分のどかな自然に触れ合えそうな、山間の風景の中の駅だった。

 知和を過ぎると車窓は険しい山道となり、列車はトンネルや橋をいくつも越えて進むようになった。寄り添う川はより深く谷を削り、自分の走っているところがものすごく高いのではないかと錯覚させられるほどだ。そんな風景が胡麻まで続き、車窓からさほど険しさを感じることがなくなっても、広がっているのが山道の風景であることには変わりがなく、当座の列車が終着となる園部まで、再び広々と田圃が広がるようになったのは、最後のたったの一駅間だけなのであった。

 園部駅にはさらにその先を目指す列車が待ち構えていて、私も間髪いれず次の快速列車へと乗り継ぐことになった。園部から先の山陰本線には嵯峨野線という愛称線名がつき、小さな無人駅にも大きな自動改札機が現れて、着実に京都の都市圏へと入ってきているということを如実に示すのだけれど、車窓に広がるのが山間の風景であるという基本はすぐには変わらないようだった。吉冨からはまた広々と田圃が広がるようになったが、それでも心なしか建つ建物もの数も増え、通りがかる街の規模もだんだん大きくなっているかのように私には感じられてきた。

 そして、快速列車と普通列車が接続する亀岡駅へと列車は進んでいった。亀岡駅は駅舎のある側には大きな街が開けていたのだけれど、裏側には一面の田圃の広がる、なんとも格差の大きい駅だった。その田圃を埋め尽くす一面の稲は風になびき、一瞬の涼しげな雰囲気を私に感じさせてくれた。保津峡を目指していた私は普通列車に乗り継ぎ、大荷物をロッカーに放り込むことを目的として、トロッコ列車との接続駅である馬堀駅へと降り立った。しかし、その目論見は、大きく狂うことになってしまった。

馬堀駅周辺 馬堀駅の正面には、広い土地に造成中の住宅街が広がっていて、駅舎も小奇麗ではあるが小さいものだった。どうも、トロッコ列車との接続という意味はあとづけされたものでしかなく、この駅の存在は基本的には住宅街に住む人にとってのものということらしく、コインロッカーなどというものも存在しない。裏手に回れば周囲には一面に黄緑色の明るい田圃が広がり、背後にそびえる深緑色の丘陵へ向かって線路と田圃との間に細い路地が通されて、その先にはトロッコ列車の駅舎が緑の中に孤立する。観光客の集まるこちらにさえコインロッカーはなく、結局大荷物を背負ったまま保津峡へ歩きに行くことが確定してしまったことになった。とりあえず馬堀駅へ戻り、駅前に一軒だけあった軽食堂で体力をつけ、いかにもトロッコ列車に乗ってきましたといった感じの観光客があふれる小さな駅から私は再び普通列車に乗り込み、長いトンネルの合間に一瞬だけ荒々しい渓谷や瀞場が顔を見せるだけの一駅間を進んで、保津峡駅へと向かった。

保津峡駅 保津峡駅は、大峡谷にかかる橋の上に作られた無人駅で、周囲に人家はないけれど、違法駐車がてんこ盛りの大盛況である。ハイキングで列車から降りる人も少なくはないのだが、多くの旅行者にとっては駐車場としての意味しかなさそうな駅の周りは、それでも一歩歩みを進め、車が目に入らなくなれば、静寂な緑の山の風景となる。川に沿って細い車道が通されているけれども、周囲は木立に囲まれて、川面を直接拝めるポイントは少ない。むしろ林の中に時折露出する岩盤には、苔むしてはいても美しい節理が発達していたりもする。ごくたまに垣間見られる川面は白い岩石をちりばめ、白く飛沫を上げている。

保津峡 そんな林の中を延々と30分ほど、大荷物を背負ったままなのでごくゆっくりとしたペースで歩き進んでいくと、道は細いままなのにまた駐車が増えてきた。この辺りで2つの川が合流し、その地点に赤い橋が架けられた、落合橋というポイントである。橋の上の高いところからは比較的奥の方までの展望が利き、両脇をきわめて高い山肌にさえぎられた間を、緑色のゆったりとした表情を保ちながら流れていく川面がとてもきれいだ。

 この橋の周囲にはいくつか、下方の川岸へ降りることのできる階段道がいくつか作られていた。降りてみれば川遊びに興じる家族連れがたくさんいたりもしたが、庭石程度の大きさの白や灰色の石が敷き詰められる中を流れていく川は、涼しげな音を立てて透明な清らかな姿を保ちながら流れていく。川には小さい魚も棲み、川底の苔を探してはついばむように食べ、そしてすぐ別の所へと行ってしまう。バーベキューのにおいの漂う中、私はそんな清らかな風景にしばし身を任せた。しかし、時が経つにつれて訪れるバーベキューの家族連保津峡れは増える一方だった。おいしそうなにおいは決していやではないけれど、もう魚は寄り付かないのではないかとも心配になったし、なによりもはやまったりと何もしない時を過ごすという雰囲気でもなくなってしまってきて、私は本流と支流がまさに合流する地点へと移動することにした。

 そこは瀞場でもあるのか、川の流れはますます広々、ゆったりとし、背後には緑の山並みが堂々とそびえ、よりスケールの大きい山河の風景を楽しむことのできる所だった。腰を下ろした岩盤にも、立ちはだかる岩盤にも斜めに美しい節理が走り、荒々しいのだけれどのんびりとした気分を感じさせてくれる、そんな雄大な風景が広がっている。保津川下りの船も時折往来し、のどかなムードをさらに演出してくれる。河原が少ないのでバーベキューの家族連れはいないが、暑い中川に飛び込んだり川の水で遊んだりする子供たちのほほえましい姿が、のどかな風景をさらに引き立てている。スケールの大きな風景の中で何も考えない時を過ごすなら最初からこっちに来ていればよかったのかもなと思いながら、私はおそらくこの旅で最後になる、ゆったりと時が流れていく風景を楽しんだのだった。

 私は往路と同じ木陰の道を、保津峡駅まで戻った。来たときには気づかなかったのだが実は駅の周囲やホームからの川の景色も、橋の上にある駅だけあってそれなりにパノラマが広がって見ごたえのあるものだったりして、列車を待つ間私はついついホームの上を駆けずり回ってしまった。下を流れる川がつくる雄大な景色の中には数多の人間の姿があったが、駅のホームにはなぜか人の姿はほとんどなかったりしたので、私はしばらく、誰にも遠慮する必要のない列車街の時間を過ごすことになった。

 程なくやってきた列車で私はいったん馬堀駅へと戻り、予約してあったトロッコ列車に乗るべく、再び田圃をはさんで隔離されたトロッコ亀岡駅へと向かった。発車時刻まではかなり余裕があったのだが、一面に田圃の広がる周囲の風景があまりにものどか過ぎるため、立派な駅舎も当然閑散としてしまう。それでも発車時刻が近づくにつれ、団体も集合し、にわかに賑わいを持ってくる。並行する山陰線の線路に特急や普通列車がひっきりなしに往来する中、特に何もすることがない静かな駅の中でそんな様子をじっと観察していると、なんだか「駅」というものの存在意義を考えたくなってしまったりもする。

トロッコ列車から やがて周囲にだんだん夕暮れの雰囲気が強くなってきたころ、私は予想外にがらがらだったトロッコ列車の乗客となり、ゆとりある車内から旧山陰本線の車窓を楽しむことができた。列車は発車すればすぐに、田圃の背後に控えていた丘陵へと分け入り、保津峡の渓谷へと入っていく。旧線だってトンネルは少なくないけれど、高い高い山の間を深く深く削り取り、様々な場所に灰白色の様々な形の岩盤が現れ、そして保津川は河原の間を飛沫を上げて流れつつも、周囲の山の深緑を映しこんで、車窓全体にきれいな風景が作り出されていく。さっき保津峡駅付近を歩いたときに見られた風景もあるし、見られなかった新しい風景もあったけれど、それぞれがまた違う角度から、荒々しくもどこかやさしい雰囲気を持つ、懐の深さを感じさせる保津峡の景色を作り出していた。この旅でおそらく最後になる美しい風景を少しでも多くカメラに残そうと、夢中になってシャッターを切り続けていたら、嵯峨嵐山までの30分の道のりなど、あっという間に過ぎてしまった。

 そして、嵯峨嵐山駅からの山陰本線ラストランは、もはや市街地の中を突っ切るのみになってしまった。太秦の付近では東映の倉庫がたくさん並び、映画村のセットと思われる張りぼての高い建物も見られたりした。最初で最後の、滑稽さを感じさせるまでに人工的なものを感じさせる風景である。花園からは高架に上り、大都会京都の市街を見下ろすことになった。これまでの高架線と違い、周囲の建物も背の高いものが多いから、もはや高いところを走っているという実感に乏しい風景だ。客もいっぱい乗ってきて、ここまでの車窓や車内すべてに満ち溢れていたはずのローカルな雰囲気は、もはやまったく見つけられないまでになってしまった。そして梅小路をはさむように東海道本線との合流を果たし、8月5日に幡生を出発してから15日間に渡った山陰本線の旅は、ついに夕暮れの京都駅において、最後の幕を閉じることになったのだった。

 京都の駅の中で夕食をとっているうちに最後の陽がとうとう暮れてしまった。7時をわずかに過ぎただけだったが、私にはずいぶん早く夜がやってきたかのような印象だった。日が短くなっているせいか、それとも、ひたすら東へと進んできたからだろうか。すっかり夜になった京都駅から私は新幹線に乗って東京への帰路に就き、18日間に渡った長旅に終止符を打ったのであった。


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