1.岩国、下松(8.2) / 2.山口、長門峡(8.3) / 3.宇部、長府(8.4) / 4.小串、土井ヶ浜、角島(8.5) / 5.川尻岬、青海島(8.6) / 6.萩(8.7) / 7.津和野、益田(8.8) / 8.浜田、温泉津(8.9) / 9.石見銀山、出雲大社(8.10) / 10.日御碕、立久恵峡(8.11) / 11.松江市(8.12) / 12.美保関、弓ヶ浜(8.13) / 13.大山(8.14) / 14.倉吉、白兎海岸、湖山池(8.15) / 15.鳥取砂丘、浦富海岸(8.16) / 16.余部鉄橋、浜坂、竹野浜(8.17) / 17.城崎、玄武洞、出石(8.18) / 18.福知山、保津峡(8.19)
朝の下関の街には、やはりクマゼミ時雨が響きわたっていた。海に近いせいもあるのか、温度はさほど高くなくても湿度が高い街を後にし、今日から私は長大路線である山陰本線の旅を始めることにした。もちろん山陰線の列車には下関からも乗ることができるのだが、まずは正式な終点である幡生駅に敬意を表し、山陽線を一駅だけ東へ戻った。駅裏や表口にも家やマンションの類が見えるが、駅前の一等地にあるのはあくまでJRの工場であり、駅の構内もやたら広くて何本も線路が巡らされている。私は長大な山陰本線の終点が斯様な鉄道の街であることを確認し、その山陰線の領域へと足を進めていく覚悟を新たなものとした。
しばらくして下関からやってきた山陰線の列車に私は乗り込んだ。はじめはしばらく住宅街の風景が続いたが、まもなく山側は次第に田園風景へと変わり、海側は安岡を過ぎてしばらくすれば海沿いを走る風景へと変わっていった。多少霞んではいるものの単純な形ではない海岸線を持つ美しい風景が続いたが、吉見からは一転山間の田園風景へと変わっていった。車窓には岬への道の案内もいくつか現れたりもして、本州の最西端にあたるこの辺り、相当入り組んだ海岸線を持つらしいこともうかがえる。線路の山側を併走する国道沿いはそれなりに建物が続いて開けているような印象を受けるが、海側にはのどかなまでの田園風景ばかりが続き、そんな中に唐突に駅のみが現れるかのように、川棚温泉駅の荒れた白茶色のホームが明るい緑の風景の中に登場した。
私は川棚温泉駅に降り立ち、駅というよりも役場の周りにそれなりに開けた街並みの中から出発するバスに乗り込んで、とりあえずクスノキの森を目指すことにした。役場周辺の街並みも走り出してしまえばすぐに切れ、あとは深緑の山並みに取り囲まれるように明るい緑の田圃が真っ平らに続いていくのどかな風景の中を走るのみとなった。
とりあえず目的地に一番近いと手持ちのガイドブックが主張する浜井場というバス停で私は下車した。そこはどの方角を向いても、深緑の山に囲まれた鮮やかな稲の緑色に支配される世界だった。周囲を取り囲む丘に向かって少し進めば案内があって、それに従って登っていけば、クスノキの森は山肌を埋め尽くす深緑色の一部として現れた。鬱蒼と茂っている森であるかのようにも見えるけれど、根元をたどると一本の木であるというのがこの場所の売りである。その、この森のまさに根幹をなすクスノキの幹に結びつけられている注連縄の長さは、幹のすさまじいばかりの太さを圧倒的な勢いで主張する。そんな巨木はクマゼミなどを呼び寄せ、強い日差しの中に影を与え、暑い中に和みの空間を作り出しているかのようであった。
深緑の森と黄緑色の田圃に支配される空間に流れゆく時はあまりにもゆったりとしていた。川棚温泉の市街へ折り返すバスは、到着した直後に出た後は4時間も来ないことになっていた。私は周囲を囲む丘陵の中に通された細い道をたどり、海沿いにある小串という場所を目指すことにした。道はまさに森の中を無理やり通したようなもので、そこそこ道幅はあるものの、崖や鬱蒼とした森が道のすぐ際を固める。振り返れば浜井場の集落が見渡せたが、後はひたすら山道となるのみ。深い森の中のなだらかな登り道は、約30分で下りに転じ、さらに同じような森の中を20分ほど進むと、木々の間からはちらちらと海の姿が望めるようになってきた。その景観の最たる地点に、夢ヶ丘公園があった。
夢ヶ丘公園は、道の両脇を固める緑の崖の中に白茶色のむき出しの土が見え、その中に墓やら、磯部何某という人の碑やら石仏群やらが点在する、高台に整備された公園である。目指す小串の方向には、すがすがしいばかりの海の姿が広がっていた。複雑な形の緑の陸地と、限られた領域に集まる街並みの白い建物に囲まれた青々とした海には、ヨットのような小さな船がたくさん浮かぶ。下界を走る列車の音や車の音も時々聞こえるが、道の往来はさほど多くなく、やはり明るい雰囲気の中、ウグイスの声や蝉時雨を聞きながら、日陰で涼しく休憩できる場所。あまりにタイミング良く現れたスポットは、特に何かあてがあるわけではない道中における、私にとってこの上ないうれしい発見だった。再び道に戻って街に向かう下り坂を進めば、間もなく道には標識が現れ、家や学校も現れ、歩ききったうれしさを感じながら国道に合流したのは、クスノキの森を出てから1時間半が経った時であった。
集落に出れば、海岸まではすぐ近くだった。素朴な雰囲気が満ちる漁村の集落に隣接して、小さな漁港と海水浴場があった。波は穏やかで、そしてなんといっても感動的なのは、筆舌に尽くしがたいその青さだった。すぐ近くに小島を浮かべたこんなすがすがしい海での海水浴は、さぞ心地よいものに違いないだろう。小串駅自体は小さな駅だし、裏の国道を別とすれば駅前の道も狭くて、店もさほどあるわけではない。しかし青々と穏やかに横たわる海は建物の間に駅の中からもかいま見られ、駅舎の中を通る風もこの上なく快い。列車の発車時刻の1時間近く前からも数人の人が駅舎で待っているというのも、もしかしたらこの駅の心地よさを表しているのかもしれないな、と私はこの素朴な風景を前にして強く感じたのだった。
そんな心地よい駅にゆっくりと流れる列車の待ち時間を楽しんだ後、私は上り列車の旅を続けることにした。小串を出てしばらくすれば、西長門の明るい青い海が車窓一面に広がるようになった。その水の青さと、そんな海に対峙する険しくも美しい緑の丘が織りなす美しい車窓に、私はただ見とれるばかりだった。断続的に続く海岸沿いの線路を列車は進んでいく。コンクリートで固められた海岸線も少なくはないが、海はどこまでも青く透き通って、穏やかに車窓に横たわり続ける。
私は長門二見という小さな駅に降り立った。列車から一瞬見られた夫婦岩近辺の海岸には漁村の集落もあってそれなりににぎわっているかのように感じられたけれど、二見の駅自体は少し山の中に入ったところにあって、かくして駅前は寂しいまでにのどかな雰囲気となっていた。私はとりあえず夫婦岩まで行ってみることにした。次に乗るバスが出るまでの時間では本当に行って来るだけになってしまったのだが、コンクリートで固められたかんかん照りの海沿いの国道をひたすら、間近の海の濃い青と空の薄い青を楽しむことさえ忘れそうになりつつようやくたどり着いた夫婦岩は、それがあるだけの、あとはひたすら真っ青な海しかない所であった。
山陰線はここからは内陸に新路を取るが、私は引き続き海岸沿いに走っていく路線バスに身を任せることにした。車窓には一面に、ブルーラインの名に恥じない、鮮やかに青く明るい穏やかな海岸線が映し出されていく。海岸線はコンクリートで固められているところがほとんどだけど、時折現れる岩場は子供にとっても大人にとっても格好の磯遊びの場となり、そして港が開ければ付随して多少の街並みも現れてくる。そうやって時折現れる集落の一つが、弥生人の墓のあるという土井ヶ浜であった。
土井ヶ浜遺跡は公園として整備され、それらしく住居の復元もあったりしたし、片や一面蓮の葉に覆われる池もあったりする。ちょうど昼飯時だったのでまずは食堂に入ったのだが、赤米というのが名物らしく、カレーにしてもらうことにした。おそらく話題作りのために作ってみたといったところだと思うが、味はまるっきり普通のご飯なのに赤飯のようにほんのり赤く色づいているというのは不思議な感じがした。この赤米は庭園の中にある小さな水田で育てられているようで、害虫駆除のために飼われている鴨達は庭園の中にさらなる安らぎを演出する。周囲を囲む木々の隙間からはビーチパラソルの姿も見られ、海水浴場も近いらしいことがうかがえる。
人類学ミュージアムには、この地で見つかった弥生人の埋葬遺跡についての解説があった。あまりにたくさんの人骨が次々と見つかった場面を想像すると恐ろしいものがあるが、埋葬のしかた、遺体の姿勢の整え方、装身具、埋葬の向き、埋葬のし直しなど、いろいろなパターンのあったことが現代に伝えられたようである。当時の習慣に触れることで、こののどかな風景が昔はどんな感じだったのだろうと想像を巡らすのも、また楽しい。弥生人は縄文人とは別の人種らしいが、その時代は初めて戦争ということが行われた時代でもあったといい、矢がいくつも突き刺さったままの人骨も発見されたという。隣接する弥生ドームには埋葬の様子がレプリカ展示される。ミュージアムの映画で、弥生人は同時期の中国人と類似することから、大陸にルーツがあって何らかの理由で脱出して日本に住み着いた人たちであり、西向きに埋葬されていたのはふるさとを見られるようにしたのだという説もあるのだという。様々なことを教えてくれて日本史にロマンを与えてくれた数千年前の人々に、素直に敬意を表したい気持ちになった。
私は引き続き、海岸沿いに北上するバスに乗り込んだ。土井ヶ浜の青くきれいな海岸線には海水浴客もたくさんいて、それなりのにぎわいを見せていた。バスは山道と海岸沿いを交互にたどり、程なく肥中という小さな漁村の集落にたどり着いた。いくつかの方向のバス路線が集結するこの肥中の集落の中にある恩徳寺には、どういうわけか木がまっすぐに伸びずに曲がりくねって結ばってしまったような感じの「結びイブキ」という珍しいものもあったりするのだけれど、高台の境内から見渡すことのできた肥中の漁村は、澄み渡る海に面してどこまでも小さく、静かだ。
とりあえずこの付近にある薬師寺も見ておこうと思い、私はとりあえずそちらの方へ向かうバスの時刻表をのぞきこんだりしていたのだが、大荷物を背負ってそんなことをしている私の姿が、この漁村の老人にはどうも、身を乗り出してまで語りかけるに値するほどのほほえましいものとしてとらえられてしまったようだった。薬師寺は爺さんにとってもこの辺りのおすすめスポットであるらしく、一番高いところに登れば角島も見られてたいそう景色がよいらしいことを力説する。バスに乗らずとも歩いてでも行けるところであるかのような勢いで語りかけられた私は、バスを待つのをやめることにして、その勢いに押されるように薬師寺に向かって歩き出した。確かにバス停2つ分の距離ではあったが、延々だらだらと続く登り坂を歩くこと30分、追い越していくバスの後ろ姿を恨めしく思いつつ薬師寺にたどり着いた私は、爺さんの言葉をなぞるように、本道の裏手に延びる草蒸した獣道を、足に草まけをつくりながら必死で歩いた。爺さんの力説した一番高い所には、確かにかつては展望台があったらしいことをうかがわせるコンクリートの基礎が、しかし全く整備されないまま深い草に埋もれ、周りにも木が生い茂り、海が広がっているらしいということはわかっても、全く展望は開けないのであった。
私は爺さんの頭の中に残る過去の世界を訪れることはできなかったけれど、境内の日陰は快かったし、引き返したバス停からは海水浴場を見下ろすように青くきれいな海が広がっていた。木造の大して大きくもないお堂に守られる涼しい日陰で火照った体を冷却し、最後に私は、昨冬橋が架かったばかりであるらしい対岸の角島にバスで渡るだけ渡ってみることにした。車の2車線がぴったりとられている程度の細い橋で、特に下り坂にさしかかったときは外に放り出されそうな恐怖感を感じたが、ブルーラインの青い海が一面に広がる中、ちょっとした浮遊旅行をしているかのような感覚に私は包まれていた。そんな、広々とした青い海に架かる長い長い白い橋を後にすると、バスは島内を右回りに一周するコースをたどるようになった。島に入ったからといって雰囲気ががらっと変わるわけではなく、深緑の丘に挟まれるように田畑の存在する田園風景と、漁港の青い風景の中をバスは進んでいき、やがていかにも橋の開通にあわせて整備されたのだろうといった感じの太い道から、もはや田畑どころか森林も発達しない岬の園地を周回する一方通行の道へと入って、角島灯台へとたどり着いた。
周囲はススキなどの草の優勢な、荒涼とした先端の旅情のある岬だった。公園としての整備が完了していないような感じがあったのだが、灯台の上からの眺めはすばらしいものだった。角島は亜鈴状の形で大きさも比較的あり、反対側にあたる角島大橋は見られないのだけれど、日が傾きかけて深みを増した青く穏やかな海に囲まれた、眼下のきれいな海水浴場を含む角島の全景が、涼しい風の中さわやかなまでに一望の下になっていた。今日の午後はいろいろあってとてもたくさん汗をかいたのだけれど、それをすべて帳消しにしてくれるかのような心地よさだった。実はこのバス路線の存在どころか、角島に橋が架かったという事実すら、私にとっては今日初めて知ったことだったりしたわけなのだが、このようなすがすがしい景色に出会うことのできた巡り合わせには、ただただ感動を覚えるより他になかった。またいつか再びくる頃には公園の整備も完了しているだろうか。その時にも今日のように、突発的にふらっと訪れても許してくれる島であり続けてくれることを祈りたい気持ちで、私はいっぱいになっていたのだった。
私は日射しの勢いの弱まりつつある中、本土へ戻るバスへと乗り込んだ。島の外海側は海水浴場になっていて、車も人もたくさんいてかなりにぎわっている様子が車窓からもうかがえる。間違いなく橋ができたことによる効果なのだろう。便利になるのはいいことだろうが、のどかさだけは失われずにいてほしいものだ。そんなことを独り願ううちにバスは再び橋へとさしかかり、また広々と広がる大海原の上を浮遊し、本土に戻ればさっき懸命に歩かされた道をあっさりと引き返していった。それなりの集落の広がる特牛港を過ぎるとバスはまた内陸の、ひたすらのどかな田舎道をひたすら歩み、とりあえずたどり着いた特牛の駅前もそんな、同名の港とは全く雰囲気のことなる深緑色ののどかさの中にぽつんとたたずんでいたのだった。夕刻にさしかかりヒグラシ蝉も鳴き始めた山村の小さな駅は、木造の駅舎が涼しげな風を穏やかに呼び込んでいるかのようだった。
特牛から再び私は山陰線を上り、宿を取ってあった長門市を目指した。列車はしばらくは山村を行ったが、阿川を過ぎたあたりでまた海沿いに出た。相変わらず美しい海岸線で、少し離れた対岸には楊貴妃の墓があるという噂の半島も大きく堂々としてたたずんでいる。複雑に入り組む海岸線に寄り添ったり離れたりを繰り返しながら、列車は車窓に様々な風景を映して進んでいく。そんな美しい海岸の風景も、対岸に延びていた半島の付け根となる人丸まで来ればまた、丘陵に挟まれながらひたすら田圃が続く風景へと変わっていった。海を遮って立ちはだかる深緑の丘陵の上には、風力発電の風車も風を受けて静かに回る。そして黄波戸の手前で軽い山越えをこなすと、列車は再び海沿いへ出た。対岸に見える大きな島はおそらく青海島であろう。その島と橋でつながる長門の市街へたどり着くにはしばらく時間を要し、風景の大きさを感じたものだった。
列車からはそれなりに開けているように見えた長門市の市街だったが、実際に街に出ればものすごい大都市というわけではない。風もそんなに蒸し暑くないのだが、泊まった宿も含め、あまり新しくない建物が多いような感じがしたのが、この街の現況を表しているのだろうかと私には多少気になったのだった。