山口・山陰(2001.8.2-19)


1.岩国、下松(8.2) / 2.山口、長門峡(8.3) / 3.宇部、長府(8.4) / 4.小串、土井ヶ浜、角島(8.5) / 5.川尻岬、青海島(8.6) / 6.萩(8.7) / 7.津和野、益田(8.8) / 8.浜田、温泉津(8.9) / 9.石見銀山、出雲大社(8.10) / 10.日御碕、立久恵峡(8.11) / 11.松江市(8.12) / 12.美保関、弓ヶ浜(8.13) / 13.大山(8.14) / 14.倉吉、白兎海岸、湖山池(8.15) / 15.鳥取砂丘、浦富海岸(8.16) / 16.余部鉄橋、浜坂、竹野浜(8.17) / 17.城崎、玄武洞、出石(8.18) / 18.福知山、保津峡(8.19)

ホームへ戻る   ご感想はこちらへ


 久々に暑くなりそうな感じのする米子の市街。この旅の中では初めて連泊をする予定だったことから荷物もごく少ない身軽な装いだ。島根県に未練があったわけではないけれど、島根県の領域である美保関へ向かうべく、私は境線の列車に乗って境港を目指した。境港が水木しげるの故郷であることを由来として、列車までが鬼太郎のキャラで埋め尽くされている。乗り込んだ列車はゆっくりとこまめに米子の市街の中へ止まりながら進んでいくが、デパートや郊外型の大きな店の目立つ後藤を過ぎると、建物と線路との間が広がって、田圃も車窓に現れるようになった。決して海沿いを走るわけではないが、右手にも左手にも遠くには松原のようなものが連なっているのがわかる。

 そのまま弓ヶ浜あたりまで進むと車窓は畑と荒れ地の方が優勢となって、どちらかといえば荒涼とした雰囲気が漂うようになってきた。見たところネギ畑が多く、緑というよりは青色に覆われる畑が続く。田圃はこの辺りではあまり目立たず、砂州状の土地はやはり基本的に水はけのよすぎる砂地なのだということを想起させてくれる。トウモロコシ、里芋、たばこなどが育ち、そして休んでいる土地はむしろ白っぽい地面を見せる。大篠津では米子空港に隣接し、無機的な何もなさは、荒涼とした風景にさらに拍車をかけるかのようだ。畑作中心になると雰囲気は田圃よりもカラフルにはなるけれど、その反面興ざめとなるセイタカアワダチソウや砂地なども目立ってきて、ささくれだった雰囲気となってしまうことも否定できないようである。

 そのうち、前方に立ちはだかっていた島根半島の山並みはだんだん大きく、近くに堂々とそびえるようになってきて、レールはその麓を目指してまっすぐと延びていくようになった。多少住宅地の密度が高くなり、半島の山並みを目前にしてまっすぐ延びていたレールが唐突に途切れると、列車は境港へ到着した。

境水道 境港駅は隠岐へいくフェリーターミナルと同居する新しい建物であり、裏手にはわずかな幅の、川といってもばれないような境水道という海が隣接する。水道の向こうには山並みが控えて青々としてはいるが、こちら側に広がっているのはコンクリートの世界である。街なかには水木しげるロードという名前のついた商店街が続いていた。妖怪の小さな石像が道ばたにたくさん立ち、街灯は目玉の親父となって通行人を見下ろす。まだ朝早くて店は開いていないのだけれど、すでに写真を撮りながら歩いている人の姿も多く見られる。

水木しげるロード そんな水木しげるロードが終わる辺りで道に出ると、対岸へ渡る渡船場があった。ここまでくれば境港大橋もだいぶ近く、かなり高いところをダイナミックに渡っている様子が充分に眺められたが、同時にその橋を徒歩で渡ることの困難さも如実に伝わってきて、橋という手段を持ちながら渡船が現役なのもわかる気がした。船体はすさまじいまでのぼろさだけれど、なんと運行回数が列車よりも頻繁であるということに、私は驚きを禁じ得なかった。

 あくまでもゆっくりと進むぼろ船に身を任せて私は対岸の島根県領へと渡り、そしてさらに島根半島の先端を目美保関指した。昨日松江駅から一畑バスの美保関行きというのが出ているのを確認していたのでそれがここを通るものだと思いこんでいたのだが、実際に渡船場へ乗り入れてきたのは末端区間を押しつけられたに違いない町営バスだった。バスに乗って外を眺めれば、境港の市街は対岸に渡ってもなお建物が密集してにぎわいを見せていたが、こちらの島根県側は崖下の緑に包まれる道が続いた。進むにつれ、対岸に広がるのは街というよりも工場ということになり、やがてその陸地は途切れてしまって、バスは完全なる海沿いの道を行くようになっていった。境大橋はだんだん小さく遠ざかっていき、弓ヶ浜と思われる白い線が、海のなかに文字通り弓なりに描かれている。そして、深緑の切り立つ斜面ばかりが続くかに思われたバス道沿いにもそれなりの漁村が開け、バスは間もなくその漁村の賑やかな所にある終点へとたどり着いた。

美保関市街 バス停の周囲には土産物屋や旅館などの観光客向けの建物を多く含む街並みが、切れ込んだ海の周囲を固めるように狭い範囲に固まり、その海には漁船がたくさん浮かんで、見るからに賑やかそうな風景となっている。私は近くの境内こそ小さいが大きい神殿をもつ美保神社にお参りをし、そんな観光地化されきったかのような街並みを横目に石畳の裏道を抜け、街並みが途切れてもなお続く車道に沿って、さらに先端を目指して歩いていった。ほとんどの区間であまり日陰のない海沿いを行くので、絶えず広がる一面の大海原を楽しみながらゆっくりと歩くことのできる道である。きわめて良い天気のもとにある海には、遠くには弓ヶ浜らしき孤、そして山影ものぞく。おそらくは方角的にも大山であろう。暑さも復活し、私は久々に汗だくになった。最後のわずかな距離だけは森の中に入って多少急な道となり、そして道路の行き止まりは駐車場となって、その先には美保関地蔵岬の芝生の園地が広がった。

美保関の海に大山が浮かぶ 園地の先端にはさほど背の高くない美保関灯台と、赤い屋根の小さな建物が建つ。真っ青な海と緑の芝生に赤い屋根はよく映え、明るい雰囲気が辺りに満ちあふれている。灯台の中には入れないようだったが、その建物の裏手からは真っ青な日本海の大海原が、左右にどこまでも広がっていた。見えるらしい隠岐はガスがかかってよくは見えないけれど、芝生に腰掛けて何もない海を眺めていると、何ともいえない安らいだ気分になるものだ。一昨日見た日御碕ほどのインパクトはないのだけれど、何もない静かな先端の旅情に包まれる岬の風景に、私は触れることができたような気がしていた。

美保関の海 私は同じ海沿いの道を、美保関の漁村へと戻っていった。石畳の道沿いにあった、この街の小さな資料館を私は少しだけのぞいていった。もともと日本海の良港であったため、帆船時代ともいうべき江戸時代には、港の周りはとてもにぎわっていたのだという。今でも街並みには旅館が多く、外からの客を呼び込もうとする体質がこの市街に強く見られるのは、もしかしたらそのころの名残なのかもしれないなあ、と思いながら、私はもう一度、船のたくさん並ぶ港の雰囲気を楽しんだのだった。

 私は再び町営のバスで、どこまでも青く澄み渡る昼の日本海に沿って渡船場へと戻った。昨日までは宍道湖や中海といった内海ばかり見ていたから、私には日本海はあまりにも広々として見えて、のんびりとした穏やかな気分は強まる一方だった。再びぼろ船で鳥取県領へと戻れば、水木しげるロードも日が高く昇って観光客も多くだいぶ賑わうようになっていた。やはりといおうか目玉商品の値札にはおやじのイラストが描かれる商店街を歩くのは楽しかったけれど、街なかで飯を食おうと思うもどうもぱっとせず、私は駅の案内所で見つけたおさかなセンターというところを目指してみることにして、境線の列車へと乗り込んだ。

 おさかなセンターは車で行くべき施設であるようで、列車で行こうとしたら、ホーム1本だけのごく小さな高松町という駅から、案内のないまま住宅の間の細い道をひたすら海の方角へ歩くことになった。10分ほどで国道と合流するとそこが入り口で、夢みなと公園として造成されている、外海へ飛び出した部分の突端にある目的地へは、さらに10分ほど歩くことになった。その道は所々で縁石がゆがみ、アスファルトに亀裂も入って、所々には立入禁止の柵も立っていた。前年の秋に近くで大きな地震があったというニュースがあったということを思い出したが、あまりに生々しい地震の爪痕を見せつけられたような気がして、私は歩きながら、なんだか少し怖いような気持ちに包まれていた。同じ道を歩く人はいなかったけれど車は多くて、目的地はかなりのにぎわいを見せていた。市場に店を出す小さな食堂に落ち着き、私は海鮮丼をしばし楽しんだのだった。

 腹ごなしも兼ねて同じ道を高松町駅まで戻り、再び境線の列車に乗って、きれいな砂浜が見られることを期待しつつ、私は弓ヶ浜駅で途中下車してみることにした。やはり住宅街の間の路地を、私はひたすらと、海があるような気がする方角へと歩いた。弓ヶ浜駅とはいってもこの半島の外海側の海岸はみな弓ヶ浜なわけだが、特に名前が付いているこの駅であっても特に海に近いということもどうもないらしく、本当にこの道でいいのかなあと何度も何度も思いながら、私はひたすら歩くしかなかった。

弓ヶ浜 歩くことおよそ30分、やっとのことで見つけたそれなりの砂浜からは、雲はかぶっているものの大山も見え、さっき到達した美保関地蔵岬から連なる島根半島、境港の工場群やおさかなセンター、そして、ここまでもここからも続く長い弓なりの海岸線が、美しく連なっていた。波は多少きついが、沖に遊ぶサーファー達にはちょうど良さそうな感じである。ひっきりなしに波は砂を揺する音を立てて次から次へと押し寄せ、海からの風も、涼しいけれど厳しい強さだ。そしてその海の青さは、大山も地蔵岬も濃い青色に染め上げ、どこまでもさわやかな海岸の風景を作り出していたのだった。

米子の古い街並み 弓ヶ浜駅から上りの列車に乗れば間もなく、後藤を境に米子の都市圏へと戻ることになった。私は米子の市街の一番賑やかそうな所にある、富士見町という小さな駅に降り立ち、夕刻の近づいた米子の市街へと出た。大きな商店街から枝のように分岐した小さな商店街を、その雰囲気を味わいつつも貫くように歩き通すと、道はそのまま古い街並みへとつながっていた。古い街並みとはいっても積極的に残そうとか、新しく立て替えるときは古っぽく造ろうとかいう不自然さがあるわけでもなく、ただ普通の家並みの中に時々、白い土壁に黒い木の柱、白っぽくなった灰色の瓦屋根の重厚な建物が混じっているような感じだ。それはそれで、変わりゆく途上にあるような街の風情を感じさせてくれる。旧加茂川の周りは一部、古い街にあるような遊歩道的に造られていて、その中には回船問屋だったという後藤家のひときわ大きな家なども見ることができる。

 その旧加茂川の河口はもうすぐそこで、米子城のあとに造られた公園もすぐそこにたたずんでいる。湊山公園という城跡は、松の木などが適宜配置された庭園風であるが、いくつかの大きな岩の上に塔が建つ建造物のようなものが、寺の跡であるのだそうだ。城の跡を見たことがあっても寺の跡を見た記憶がない私にとっては、なかなか新鮮な感じがしたものだった。

 湊山公園は海岸を伝わって城山までつながり、海を見ながら歩ける遊歩道が整備されてはいたのだが、私はここでも、地震の爪痕を見せつけられることになった。中海を見渡すことのできる海岸は階段状に固められていたけれど、一番海面に近い段には入れず、一段高いところから海を眺めることしかできない。右手に広がるのは米子の工業地帯、左手はこれまで通ってきた緑の陸地ということになる。雲がちょうど出てきて太陽は隠れてしまっていたが、もう少し後で雲がなければきれいな夕日が眺められそうなところではある。隣接する城山は、完全に立入禁止になってしまっていた。一応工事期間は翌年の3月までとはなっている。今街なかを歩いていてもあまり地震の爪痕を感じることはなかったのだけれど、前年の秋、ここには確かに大災害があったのである。

皆生温泉に沈む夕陽 最後に皆生温泉によっていこうと、そちらへ向かうバスに乗ることができるバス停を探して歩いたら、赤い煉瓦作りの美しい旧市役所の姿も見ることができた。私はその前にあるバス停から、夕方の買い物客で込み合う、生活路線としても十分に機能しているバスに乗り込んだ。道はどこまでも太く、街並みもいっこうに途切れない。目的の温泉街は、そんな密集する住宅街の先に連続するように開けていた。それなりに広い範囲のなかに大きなホテルや歓楽街もあり、この間の温泉津などとは対照的な華美な雰囲気に満ちている温泉街である。都市に近いという便利さゆえのことなのだろう、と私は想像した。海岸にも近く、長い弓ヶ浜の一部である砂浜は海水浴場となり、今朝の地蔵岬まで長く陸地が延びている様子がよく見渡せる。夕食後再び海岸に出てみると、オレンジ色になった太陽が雲間から顔を出し、海岸と温泉街の風景を見事なまでにオレンジ色に染めるようになっていたのだった。

 皆生温泉の公衆浴場は手持ちの古いガイドブックの位置からは移転していて名前も変わり、温泉街の入り口に近いところでホテルも併設して「O・U」(オーユー)という名前になっていた。建物は高級だけれど入湯料自体は安い公衆浴場料金なのがうれしい。相当人気を集めている施設であると見え、人もかなり多くにぎわっていたのだけれど、鳥取県一の湧出量を誇るという皆生の湯とその設備は、混雑というデメリットを補って余りあるものだった。盆休みという時節柄か家族連れ、子供同伴できている人も多く、至る所で発生する微笑ましい風景に、私の心も和まされて、湯に浸かりながらしばしのゆったりとした時を楽しむことができた。歩き通しで重くなっていた足も軽くなった気がして、とてもいい湯であった。

 湯上がりで多少は快適なものを感じながらも、外は相変わらず蒸し暑かったわけだが、帰りのバスに乗り込めばその冷房はあまりにも快適なものであるように感じられたのだった。私はそんな快適なバスで米子の駅まで戻り、2回目の米子の夜を過ごす宿まで、軽くなった足で歩いていったのだった。


次のページに進む
このページの先頭へ戻る
前のページに戻る

ホームへ戻る
ご感想はこちらへ