1.倶利伽羅峠(3.21) / 2.厳門(3.22) / 3.ヤセの断崖、総持寺門前(3.23) / 4.輪島、曽々木海岸(3.24) / 5.禄剛崎、珠洲飯田(3.25) / 6.九十九湾、縄文真脇(3.26) / 7.宇出津、中居(3.27) / 8.穴水、能登鹿島(3.28) / 9.能登島(3.29) / 10.七尾、大境(3.30) / 11.氷見(3.31)
今日もいい天気。朝陽は宿舎の正面の海から昇り、目前の海を青白く輝かせる。軍艦島は影になってしまって暗くしか見えないのだけれど、堂々とした威風は昨日の夕方初めて見たときのままだ。公園のように整備されてそれなりに広々とした見附海岸の砂浜から軍艦島までの間は、たくさんの大きな石が道のように敷き詰められて橋渡しをしてくれるのだけれど、決して丁寧に並べられているわけではなくて歩きにくく、運動神経の鈍い私は何度も足を滑らせ、何度も足首を捻って痛みを感じるほどになってしまった。それに道の途中、どうしても越えることのできない幅の水路が形成されてしまっていて、結局私は軍艦島に再接近することはできても、軍艦の本体に手を触れることはできなかった。しかしそれでも近づけば近づくほど、堂々としていた軍艦はさらに大きくなって、しっかりとしたその体を私の前に示してくれたのだった。周囲の海は穏やか以外の何者でもない。波もさざ波程度にしか立たず、遠い沖合を漁船がゆっくりと航行する、朝の爽やかな海岸の風景が展開していた。
見附海岸から恋路海岸までの道は「えんむすびーち」なる名前が付けられているらしい。だからといってずっと海岸沿いに歩いていける道はどうやらないようで、ある程度長く延びた見附海岸の砂浜が途切れてしまうと、その先の海岸は海と道路との間に家を構える人の土地ということになっているらしい。もっとも列車の方もしばらく便がないことはわかっていたので、私はかまわず海岸に沿うように延びる車道を歩いていくことにした。道路の周囲を固める家並みの隙間には時々田んぼがあって、そこで働くおばちゃんの肩越しには静かな青い海が広がる。山側には深緑の丘陵もすぐそばに控え、家並みや田んぼの他に地酒の酒蔵も現れたりする。そんなのどかな道をゆっくりと歩き、併走するのと鉄道の駅をいくつか通過していくと、道は珠洲市から内浦町へと進んでいき、すぐに久しぶりの海沿いへと続いていった。
この海こそが、恋路海岸というそそられる名前を持つ海岸であるという。説明書きを見れば要は熱愛と横恋慕が招いた悲劇が伝説として残る海岸ということらしい。しかしオフシーズンの今となってはそんなことは知ってか知らずか、鳥居の建つ岩礁を中心に、わずかばかりの砂浜と、白くごつごつした岩の周囲に広がる磯浜に、青い海がさざ波をゆるやかに寄せる、静かな浜辺でしかない。軍艦島からはだいぶ遠ざかってしまったけれど、しかし未だ白い船のような堂々と姿を見せ続け、その先にはこれまで通過してきた飯田や鉢ヶ崎に通じていく青白い陸地が、さらに青白い空の元に延びている。動くものは時折行き交う小さな漁船と、鴎と、ごくわずかに揺らめく波だけの、至って穏やかな朝の海であった。訪れてみたかった恋路駅は、このわずかばかりの砂浜に隣接するように広がる田んぼの奥の高台に小さくぽつんとたたずんでいた。高台のホームに登れば、田んぼの向こうにやはり青い海が穏やかに横たわる。
私はそのまま恋路駅で列車を待ち、上りの列車に乗り込んだ。列車は内陸の黄色い森の中を進んでいった。松波という駅のすぐ近くには城址公園も控えていたらしい。列車はいくつかトンネルもくぐっていき、外へ出るたびごと、広々とした田んぼや、海沿いに広がる小さな家並みを車窓に映し出していく。九里川尻では、キリコをかたどった橋も列車からよく眺められる。やがて海岸線はリアス式の陸地に海が深く切れ込んだ複雑なものへと変わっていき、岩場に深く切れ込んだ大きな淵の周囲に小さな漁村が形成されるようになっていった。
私はそんなリアス式の漁村の駅である九十九湾小木という駅に降り立ち、漁村の中から出ている遊覧船に乗ることにした。集落はきわめて小さく、駅が有人駅のままであることが奇跡的にも感じられるほどだ。街なかにも人の気配はあまり感じられず、遊覧船乗り場に行っても係員以外の人の姿はあまりないようだった。遊覧船への乗船の手続きをとると、しばらくあとに団体がやってくるのでそれと一緒にということになったのだが、その前に車で家族連れが訪れたため、そちらと一緒に急遽先に出航することになった。客が集まり次第出航という何ともフレキシブルな航行ダイヤになっていたらしい。
船は、九十九湾という名の通りリアス式で複雑に山の間に入り組んでいる細い海を進んでいく。山肌は深緑色の常緑樹に覆われているのが基本だが、所々複雑な形に削られて白い岩盤がむき出しになっているところも見られる。複雑に入り組む入り江に沿うように小さな船はあちこち動き回り、絶えず変化する海岸線の景色を楽しませてくれる。
この遊覧船のおもしろいところは、地下室に回れば海底の景色を楽しむこともできるということだった。澄み切った青い海底には淡い緑色のホンダワラが森のように密生し、それらは軽い波に揺られて神秘的なまでにゆらゆらと揺らめき、日の光をきらきらと浴びて、不思議な輝きを見せる。その間には時々、透明で一見生物であるとは思えないクラゲが舞い踊っていたり、小さな魚が時には単独で、時には群れをなして泳いでいたり、黒鯛のような大きなものも優雅に泳いでいたりする。地上の世界とは全く異なるけれどもやはり美しい景観が、確かに海底にも存在しているというわけである。そして全く異なるそれらの二つの世界のどちらにも、春の日は穏やかに降り注ぎ、のんびりとした時間が流れているのである。
船は最後に、小さく浮かぶ蓬莱島を迂回していく。この蓬莱島を帆に見立てて海の真ん中に浮かべた風景が、九十九湾で最も美しい風景であるとされているという。見慣れない複雑な海岸線は私には全て美しい風景に見えてしまうのだけれど、確かに能登に存在する、リアス式の谷が海に沈み込んだような風景を、私はしばしの間堪能することができたのだった。
船を下りた私は、周りを囲む高い山並みの中のどこかに湾を高台から見下ろせる場所がないだろうかと思って少し周囲を歩いてみたのだが、港に面する低い場所にあるこの漁村からは、どこへ移動するにしても一山越えなければならず、そしてあらゆる道は決して海沿いではなく山の中、森林の中の道ということになってしまっていて、期待したような清々しい海の風景を見つけることは、大荷物を背負ったままの私にはできずじまいだった。本来なら民宿や食事屋も多少はあるようなのだが、オフシーズンということなのかどこもひっそりとしてしまっている。食事さえままならない思わぬ苦労を味わってしまった上に、あてもなくさまよっている間に松波に戻る列車にも先行するバスにも乗れない状態になってしまった。どうも今日はやることが裏目に出てしまう傾向があるようだ。
私はろくに昼食もとらないまま、午後の旅を続行した。のと鉄道の上りの列車に乗り込み、海に近いはずなのに山間のトンネルばかりが続く線路を数分間だけ進んで隣の縄文真脇駅へ。高台のホームから少し海が垣間見られ、背後にはなだらかな斜面が広がる。その斜面の中腹に、縄文館という展示施設があった。
なんでもこの辺りには縄文時代には集落があったのだそうで、そのあとからの出土品の展示がメインとなっているわけだが、特徴的で興味深いものとして私に感じられたのは、この辺りでは解体された跡のあるイルカの骨がたくさん出土していることから、定期的にやってくるイルカを捕まえて食べていたと考えられているということである。一頭捕獲すれば百人オーダーで住人を養えるおいしい獲物だったということで、そのおかげで当時の人たちは狩猟採集のみで生計を立てることができたとう。そして出土する土器も、お魚さん土器やら鳥さん土器やら、やたら凝った装飾のものがいろいろあるのだそうだ。
この辺りの斜面は縄文時代の様子をモチーフにした児童公園として整備されているのだが、展望台に登ってみれば、丘陵に挟まれたさほど広くない土地に、遺跡の発掘された田んぼとその周囲のわずかな家並み、その先には線路をはさんで漁村の小さな集落と、弓なりの海が横たわっている。当時は栽培はされていなかったというから田んぼはなかっただろうし、もちろん家並みもなかったのだろうが、その先に広がっている海は、もしかしたら縄文館の想像図にあったような、イルカの手捕りが行われていた場所だったのだろうか。そして何千年前の人たちも、この丘のどこかから、狩りの手を休めて今の私のようにのんびりと海の風景を眺めていたのだろうか。そんなことを考えながらぼーっと目の前の景色を眺めていたら、冷たいはずの風も、長いはずの待ち時間も、全て雄大なタイムスケールに比べれば大したことのないものであるような気がしてきた。
私は、かつてイルカの群れが訪れていたらしい海岸へと降りてみた。もっともゴミとたき火のあとばかりが目立っていて往事の面影は全くなかったのだけれど、昔はこの場所で男達はイルカにとどめを刺し、女や子供たちは収穫に喜んでいたのだろう。おそらくは当時と全く様子は変わってしまっているのだろうけれど、今ここに確かに流れている、カモメがのんびりと飛び交うのどかな時間は、もしかしたら昔から変わっていないのかもしれなし、これからもずっと変わらないでいてほしいものだ、なんてことを私は考えていたのだった。
私は高台の駅に戻り、列車に乗りこんで、ダイヤ的に今日最後の経由地となる宇出津(うしつ)を目指した。相変わらず山道とトンネルが繰り返される車窓だったが、海との距離が次第に近づいているようで、トンネルの隙間からは入り組んだ海岸の風景を楽しむことができるようになっていった。やがて久しぶりに完全に海沿いの道に出ると、程なく複雑に曲がりくねる海岸を固めるような市街地が形成されていった。
宇出津駅で列車を降りた私は、駅の周囲に広がるそこそこ大きな商店街へと出た。商店の集合というよりもむしろ一つ一つが大きな店で、大通りには大型のスーパーなども複数建ち並び、いかにも栄えていそうな風情を私は感じた。そんな商店街を貫く大通りは程なく唐突に海辺へと連絡した。
そこは、九十九湾と同じように海が細長く陸地の内部へと入り込んだような宇出津湾の一番奥にあたる部分であったが、しかし九十九湾とは異なって人工的な港によって海岸線の多くの部分が固められ、この宇出津の街を街たらしめている理由を物語っているかのようだった。港には大きな丸いライトをたくさんぶら下げた漁船がたくさん停泊している。湾に沿って西側の海岸沿いには木造の建物や民宿などがびっしりと建ち並び、生活感にあふれる場所になっているように私には感じられた。一方、ほんのわずかな幅の水路のような湾の対岸に控える丘陵は、たくさんの深緑の樹木をまとい、その下部は白い岩盤をむき出しにした断崖となっている。要は、九十九湾をちょっとだけ大きくして、陸地に対する切れ込みも大雑把にしたような感じで、湾を囲む岩礁が険しいことには変わりないけれど、湾に沿って歩けるだけの余裕がある分、とてもきれいとは言わないまでも、なじみやすい風景を作り出しているのであろう。
私は湾の西側を固める市街地を、湾に沿って歩いていった。やがて対岸に延びていた深緑の丘陵が断絶し、外海に面するようになると、道は住宅街の間へと入っていく。湾岸にあったどちらかというと古めかしい市街に比べると、どこにでもあるような新興住宅街のような雰囲気の住宅街である。そんな住宅街の末端は国道に接し、その地点には「世界一の縄文土器」だという巨大な物体が、大事にショーケースのような建造物の中に守られていた。どうってことのない、大きさだけが巨大な素焼きの土器なのだけれど、刻み込まれている一つ一つの名前は、きっとこれだけの大業を成し遂げたことの喜びを表現しているのだろう。
私は国道を通って宇出津駅へと戻った。今日の宿は宇出津には取ることができず、内陸にある柳田村へ向かわなければならないことになってしまっていたので、私は宇出津駅から、能登半島を縦断する路線バスに乗り込んだ。バスは線路を大きく一跨ぎすると、あっという間に山林の中へと進んでいく。杉林の間に通された坂道を、バスは元気よくぐんぐんと登っていく。伐採されたあとの寂しい山林も時々目にはいるけれども基本的には、深緑色の杉林ばかりが続いていく。やがて町村境を越えて柳田村に入ると、道は一転下る一方になっていった。リサイクルセンターの造成地ではそれまでに広がっていた緑の雰囲気とは異色の赤茶けた土の風景が広がり、その後もそれまでにはあまりなかった、葉を落とした寂しい木の森や田んぼが狭い間に広がっている風景も見られるようになってきた。そして高速道路をくぐってしまえば、山に囲まれた谷間に広く田んぼの広がる、のどかな山間の農村の風景が広がるようになったのだった。
今日の宿の国民宿舎もそんな、山間ののどかな農村の高台にあった。ここ柳田村は、奥能登唯一の海のない自治体であるという。これまでずっと海沿いを進んでいたから、たまにはよい気分転換といったところだろう。星がきれいだとか、ブルーベリーの栽培だとか、いろいろ名物がありそうなところであるが、今晩から天気が崩れそうだという天気予報も私にとってはやはり気がかりなのであった。