能登半島(2002.3.21-31)


1.倶利伽羅峠(3.21) / 2.厳門(3.22) / 3.ヤセの断崖、総持寺門前(3.23) / 4.輪島、曽々木海岸(3.24) / 5.禄剛崎、珠洲飯田(3.25) / 6.九十九湾、縄文真脇(3.26) / 7.宇出津、中居(3.27) / 8.穴水、能登鹿島(3.28) / 9.能登島(3.29) / 10.七尾、大境(3.30) / 11.氷見(3.31)

ホームへ戻る   ご感想はこちらへ


 この春、東京では異常に早く桜が満開となった。この春を以て私の勤務先が変わることとなり、最後の出勤日を終えた翌日、桜を拒否するがごとく、私は再び旅へ出た。さわやかな春の朝、上越新幹線の窓に差し込む光は暖かかったが、北へ向かう列車の車窓から桜の花が消え、まだ冬のままの様相を呈するモノトーンな風景へと変わっていくのに、さほど時間はかからない。

 大清水トンネルを越えて上越側に出ると、山肌に雪が残るのでだいぶ違った景色にはなるが、天気も良く、友人と日帰りスキーで訪れた先月に比べれば雪もだいぶ少なくなっていた。乗り換えのために降りたホームの空気も冷たいことは冷たいが大したことはなく、ここにも間違いなく春が訪れているということがうかがえる。

 私は越後湯沢から、北陸を目指す特急はくたか号へと乗車した。新幹線を埋め尽くしていたスキー客もすっかりいなくなり、車内はゆったりとさえしていた。列車はしばらくは湯沢の盆地を見下ろすように走っていく。対面を白い、ごつごつとした山並みに固められた盆地では、田圃に積もる雪と、凝結した水分が、まばゆいばかりの白い風景を作り出す。六日町を過ぎて列車が高架に登ると、そのような風景はなおいっそう、広々と車窓に広がっていく。それでも新線特有の長大トンネルを抜けていくたび、雪は次第に少なくなって、土色の山間の風景へと戻っていく。稲のない田圃には、しかし丈の低い雑草がむしろ青々として、春の気配を感じ取っているかのようだった。

 直江津からは、列車はうって変わって海沿いを行くようになった。固められた海ではあるが、山側の崖沿いを行くから、車窓はそれなりに変化に富む。そして富山県に入ると、かすんだ白い立山をバックに、雪のない広々とした平野が広がる中を進んでいくようになった。車窓は、時折海辺の工業地帯になったり、ちょっとした街並みになったり、ごつごつした川の河口の向こうに海岸線が広がったり。特急列車を降りた高岡でも、以前訪れたときとは違って雪の姿など全くなく、風もむしろ暖かい。私は駅のベンチでおにぎりを食いながら、ようやく、昨日までの忙しさから解放されてようやく独りになることができたという実感を受けることができたのだった。乗り継いだ普通列車には、特急よりもそこそこ多い数の乗客がいた。煙草は吸えないしうるさいけれど、雑多な本当の汽車旅っぽい雰囲気はこっちなのかな、などと思いながら、私はのどかな田畑を囲む山並みがだんだん間際に迫ってくる旅路をゆく普通列車に身を任せた。

 朝家を出たときは晴れていた空だったが、ここに来て急に曇りがちになり、前線が近づいているらしいことが感じられてきた。私は石動駅に降り立ち、源平古戦道でもたどりつつ徒歩で県境を越えることを試みた。とりあえず縮尺の小さい地図を頼りに、駅前に広がる街並みを抜け、周囲を取り囲む丘陵地帯へと分け入り、急な坂や九十九折りをいくつも越えていくたび、深緑の杉林の間から見える景色はだんだんと高度が上がりつつあることを示してくれたが、それとともに、私は今自分の地図上の位置を把握できなくなってしまい、いまどこにいるのか全くわからないという状況に陥ってしまった。時折不意をつくように押し寄せる春の嵐は私の不安をいっそうかき立て、道すがらひょっこりと現れた湖の風景ももはや十分に堪能することは能わず、挙げ句の果てには、あまりにも複雑につづら折りを繰り返す山道に方向感覚を完全に狂わされて、私はただひたすら、厳しくも険しい峠道を無心に歩いていくことしかできなくなっていた。ようやく自分の位置を把握することができたのは、眼下に国道8号線が現れたときだった。ただし、そこには大きなトンネルが走ってはいたものの、目的の倶利伽羅峠からは遠く離れた所だった。

 目的地とのあまりのずれに愕然とはしたものの、自分の位置が把握できたことでなんとか新たな道を歩む勇気を奮い立たせ、私は天田峠への道を、なりふり構わず歩いた。森林の中に県境を示す標識がようやく見つかった時は、ほかとは比べものにならないうれしさを感じたものだった。倶利伽羅峠へは、天田峠からさらに坂道を上っていくことになる。時折眼下には、しわの寄った大地を隔てて石川側、富山側の街並が遠くにかわるがわる現れ、そしてさんざん迷った山の中の採石場や湖も、小さいながら見えてくるようになった。

 やがて、私はやっとの思いで、目的の倶利伽羅峠へとたどり着くことができた。峠に建つ不動尊は高台にあり、案外明るい雰囲気があって、読経も清らかに流れ、陰鬱な森林を歩んできた身にはどことなくほっとするような雰囲気があった。峠の強風はなかなかやまないけれど、下界に広がる山並み、さらに遠くに小さくたたずむ街並の風景を眺めながら、私はようやく安らいだひとときを過ごすことができるような気分になっていた。このあたりは富山県と石川県が複雑に入り組んでいるようである。源平合戦の古戦場の跡を示す史跡も点在しているが、基本的には林の中であって、しかも峠の厳しい風はあたりに吹きすさび、もしかしたら源平の何かの怨倶利伽羅峠から富山県側念が渦巻いているのかもと思えてしまうほどで、私はとりあえず供養塔にもお参りをすることにした。ここは「火牛の計」で木曽義仲が大勝した地なのだと、角に炎を灯す火牛のモニュメントが教えてくれる。

 近くのおそらく県境上の高台、倶利伽藍権現石殿の頂上に登ってみれば、おそらくこのあたりで一番広々としているであろう展望が開けた。近傍の山並みとは対照的なまでに平らに延々と平坦とした土地の広がる遠方には、富山県側の小矢部の平野が際限なく続き、その反対側には石川県側の谷間に敷き詰められているような街並が展開する。風は怖いばかりに強く吹き付けてきたが、複雑に絡み合う山並みと、広々とした平野、遠くにたたずむ街並の風景を見ながら、私はようやくこの複雑な地形を制することができたかのような気分になることができたのだった。

倶利伽羅峠から石川県側 私は引き続き、山道を延々と、今度は石川県側に下った。さっきまでのようなわけのわからない林道ではなくなって、道案内もそれなりにある広くて歩きやすい道になったが、風は相変わらず強くて、私は険しい崖の法面から舞い上がる砂埃との戦いを強いられることになった。道がカーブを切るたびに、今度は石川県側の平野に田園風景の広がる風景が展開するようになったが、やがてその中に倶利伽羅駅らしきものも確認できるようになった。もっとも、確認できてから実際に目的地にたどり着くまでにはまだまださらに長い距離が残っているというのもお約束というものである。峠越えというものがいかにつらいものであるかを再確認させられた、旅路の始まりであった。そしてやっとの思いで倶利伽羅駅にたどり着いたとたん、ついにあたりは土砂降りの雨に見舞われることになってしまったのである。

 すっかり暗い空模様になってしまった中、私は北陸線の列車に一駅だけ乗って、能登半島への入り口となる津幡へと進んだ。とりあえず勢いの弱まった雨の中、津幡の街並の見物がてら、私は七尾線の中津幡という駅まで歩いてみることにした。もちろん峠道に比べれば格段歩きやすい街の中の平坦な道なのだけれど、さすがに疲れがたまっていた。津幡駅の周囲よりも中津幡や、その先の本津幡の方がにぎやかそうだということは地図上でも明らかだったのだけれど、私にはだんだんと周囲に街並が成長していく片鱗をみる体力しか残されていなかった。できれば本津幡まで制してみたいという願望はあったけれど体力も時間もなさそうで、地元高校生御用達の中津幡駅で街歩きを打ち切り、いよいよ七尾線で能登半島を北上する汽車旅を始めることにしたわけである。

 七尾線の列車はあくまで平坦な道を進んだ。所々に住宅はあるけれど基本的には田んぼに埋め尽くされる風景が続き、海に近いことにはなっているけれどその姿を見ることはできない。倶利伽羅峠の方面の空は依然として真っ暗だけれど、海の方の空は明るい。あの明るさがこちらまでやってくるのと日が沈むのと、どちらが早いだろうか、などと私は考えていた。宇ノ気を過ぎると、列車はむしろ林の中を行くようになった。周囲を囲むのは葉のない木ばかりで、どことなくもの悲しい車窓である。どうしても風景に暗い印象しか持つことができないのは、やはり疲れがたまっているからだろうか。このあたりにももうすぐやってくるであろう芽吹きの季節をとりあえず想像しながら、私は田んぼの広々とした風景と陰鬱な林間の風景の間を進む列車に身を任せていた。

 私は敷浪という小さな駅に降り立ち、周囲に広がる小さな住宅街へ回って、その住宅街と海とを隔てる段丘の上へ、最後の力を振り絞って登り、丘陵を覆う松林の懐に抱かれるように建つ宿へとようやくたどり着いた。地平線付近だけは雲も取れ、夕日がまぶしく輝くようになっていた。海岸に出れば夕日もきれいなのだろうと想像はできたけれど、もはや私には、夕陽に向かって走ることができるほどの体力は残っていなかった。


次のページに進む
このページの先頭へ戻る

ホームへ戻る
ご感想はこちらへ