1.占冠村双珠別(8.2) / 2.占冠村赤岩青巌峡(8.3) / 3.トマム(8.4) / 4.釧路市(8.5) / 5.釧路湿原(8.6) / 6.霧多布湿原(8.7) / 7.長節湖、フレシマ湿原(8.8) / 8.春国岱、風蓮湖、納沙布岬、帰路(8.9-10)
今夏最高気温を記録したという猛暑の中での、「学校にいること」が仕事のすべてということになった日直1日目の勤務を終えた翌日、私は数日前まで訪れていた北の大地をもういちど訪れる旅に出た。もちろん違う方角ではあるが、今回はできるだけすぐに北の大地にたどり着きたかったので、早朝の飛行機を利用することにした。
まとわりつくような湿度の熱帯夜には違いないが昨日の猛暑を思い起こせば充分耐えられる朝の涼しさの中、私は家を出て山手線で移動し、浜松町駅でチケットレスのチェックインを初めて体験した。「非常口に最も近い席ですので……」と機械に言われ、慣れないことが続く旅立ちに私は戸惑う一方になってしまった。私は積極的に飛行機を利用する方ではないから、切符を持たずに旅に出るということに多少の違和感も感じていたのだが、ともあれここで無事に飛行機のチケットの現物を手にすることになり、私はようやく旅の実感を得ることができた。私はすぐにモノレールに乗車し、朝の水辺の風景を楽しみながら羽田空港入りして、現地での時間を長く取るためなのだと自分に言い聞かせながら、あまり好きではない搭乗までの諸手続を通過し、そしてあまり好きではない離陸の加速度を感じながら、北海道へ向け、空へと飛び立った。
朝早くから満席の機内であったが、非常口座席というのは荷物の膝置きもできて安心感があるし、足下も広くて、万が一のことさえなければゆとりのあるいい席なのかもしれないなと思ったりもした。離陸の加速度はやはり好きにはなれなかったけど、ディズニーランドから市川、松戸上空を通り実家の団地が地図で見たままの形で現れるのを眺めているのも悪くはないものだ。しかし茨城北部に至ると前線帯に入ったか、みるみるうちに下界は雲に覆われ、機体の揺れも大きくなってしまう。上下の振動は、何度か飛行機に乗っても好きになることができないものの一つだ。
しばらくすると下界は完全に雲海になってしまって、私は機内誌に目をやるしかなくなった。その記事で、数日前までの旅で何度も目にした、背の低い草原の中にあって赤紫の茎が太く高く、ポンポンのような花を誇らしげにつけていた、草と呼ぶには大きすぎる植物の名前をエゾニュウというのだということを知った。鎖国下の焼尻にたどり着いたアメリカ人冒険家をして「Strange Plant」と言わしめたのだという。荒涼とした草原に存在を主張するかのようによく目立つ姿に、その名前はとてもよく似合っていると私は思った。
やがて飛行機は前線帯を抜けたと見え、雲の隙間に下界の海の様子もうかがえるようになった。そして函館付近まで来れば空は快晴となり、深い緑の渡島、亀田両半島に挟まれて広がる函館の市街、そして緑の大地にはみ出した肉球のようないびつな形の駒ヶ岳の姿は、まさにスカイブルーの空のもと、少し霞みながらもきれいに映えていた。離着陸時以外はデジカメを使ってよいということも初めて知って、私は早速窓から何度も外にレンズを向けた。そして海に突き出す室蘭の市街が見られるとまもなく着陸体勢となり、羊蹄山、苫小牧の工業地帯、茶色でいびつな有珠山など、あらゆるものが鮮明に見えたことが私にはとてもうれしかった。苫小牧から内陸に入り、青緑に輝く海から緑の原野、ウトナイ湖近辺の湿原と進むにつれ、地面に映る機影は次第に大きくなり、程なく原野のただ中の新千歳空港へと飛行機は着陸を果たしたのだった。
千歳空港駅でようやく今回使う鉄道の乗車券を手配し、私は地下のホームから列車の旅を開始した。列車が入ってくる時の風はこの上なく涼しく、発車を待つ間の短時間でさえ、早く地上に出たいという気分が盛り上がってくる。そして乗継ぎのため次の南千歳駅に降り立てば、空は快晴でとても明るく、昨日までに比べればこんなに清々しい世界があっていいのかと思えてくるほどの世界が広がった。
前回は北を目指したので、今回は東を目指すことにして、私はスーパーおおぞら号に乗り込んだ。発車した列車はまもなく、牧草ロールやトウキビ畑の広がる風景の中、明るい林の道を行くようになり、悠々と牧場を歩く牛たちに、また林の中のノリウツギの花に会うにつれ、また北海道にやって来れたという私の喜びは最高潮に達していた。トウキビ畑は林の間に広がり、斜面は明るい緑色の牧草地となって、たくさんの牛たちは集団でのんびりと草を食む。さっきまでいた東京のごみごみとした風景を忘れるには絶好な滑り出しだ。交換で停車した川端駅前のパークゴルフ場も芝が青々として、遊ぶ人たちも気持ちよさそうである。
やがて市街の川を一つ越えると、車窓には一転して山がちな風景が現れるようになった。右手の林越しにはダム湖のような穏やかな水が緑色に輝いていて、鉄橋を渡れば車窓いっぱいに広い水面がゆらめく。車窓に現れる崖はだんだんと急峻になってきて、滝ノ上の公園付近では地層が露出して、河原も洗濯板のようにごつごつとするまでになった。公園を過ぎれば落ち着きは戻るものの、山間に広がる田園の風景が主体となってくる。本州でも見られそうな風景だが、それでもやはり北海道で見ると、スケールの大きな風景であるような感じがする。
新夕張では山間の小さな盆地に、視界に収まる程度に集落が開けているのが、高台を走る列車からは清々しく眺められる。高度を保ったまま、列車は市街の縁に沿って蛇行する川を渡り、そしてまた山間の風景の中へと戻っていく。長いトンネルも多くなってきて、より一層険しい風景の中を進んでいることが強く感じられるようにもなってくる。そして時折トンネルの外に出て信号所を通過すれば、エゾマツや白樺などの林はまるで起伏のあるしわの寄った風呂敷のように車窓を包み込む。山肌は濃い緑と薄い緑の水玉模様のように、青空の下、すっきりとした模様を作り上げる。
私は占冠駅に降り立った。特急列車しか存在しない区間の駅、そしてまた、シムカップという何とも不思議な響きを持つ地は、私にとって是非訪れてみたい所だった。駅舎を出れば、車の数に比べてやたら広いロータリーと、太さだけはやたらとある道を挟み、すぐに青空の下、深緑と緑の山並みが目に入ってくる。多少の建物が集落を形成しているものの、およそ特急停車駅という名には似つかわしくない風景だ。私は駅前の物産館で貸し出している無料の貸し自転車を借り受け、青と緑に包まれる風景の中へと漕ぎ出した。トウキビ畑が山間に広がるのどかな風景の中をほんの少し進み、鵡川にかかる千歳橋を越えれば、中央の市街地が現れる。役場や道の駅を中心に、3つのスーパーや食堂など街の機能が小さい中に集約されているような感じだが、その小さい街を貫く道があまりに広くて、北海道の市街によくあるだだっ広さも強く感じられる。天気は極めてよくて、東京から着てきた半袖半ズボン姿でちょうどよいくらいだ。
今晩の宿もこの街なかにあって、重い荷物も預かってくれることになり、身軽になることができた私は、とりあえず双珠別ダムという見どころへ向かって自転車を漕ぎ出した。たまにしか車は来ないけれどやたらと広い国道は、コンパクトな市街を出ると、丘陵に囲まれた緑一色の風景の中を行くようになる。大したことはないとはいえアップダウンもあるというのが、この占冠が山間の国であることを示しているかのようである。細いせせらぎのような双珠別川を渡り、私は分岐した村道をたどっていった。静かな山間は一面にトウキビ畑やビート畑で埋め尽くされ、牧場では黒毛牛の親子がそろって珍しそうにこっちを見る。所々白樺林もあってすがすがしいばかりの道であるが、舗装はしばらく進んだところで途切れ、あとはひたすらダート道となった。
最初のうちは畑の姿も見られたが、やがて周囲には森林ばかりが続くようになっていく。日陰が多くなってうれしいが、アップダウンもあるし、ダートなのでスピードも出せず、結果的にあまりにのんびりとしたサイクリングとなっていった。ササやフキで覆われた下地の上には白樺やブナ、カエデの森が形成され、そして並木のように巨大なStrange
Plantsエゾニュウが並んでいたりする。そして鹿も何食わぬ顔で道に現れてくれたので、私はただ驚くしかなかった。向こうも人間が来るなんて思ってなかったのか、こっちもなるべく物音を立てないようにしていたのに、一目散にササやぶの中へと消えてしまった。熊に対する警戒を呼びかける警告も所々にあって、本当は人間という動物の来るべき所ではないのではないかということもうすうす感じながら、私は深い森の中へと、ゆっくりゆっくりと分け入った。
道に沿う林の中には双珠別川が並行していて、何度も橋を渡っていく。あるときは静かなせせらぎとして、またあるときは岩を奇妙な形に削り取る急流として橋の下を通り過ぎていく。そして目的の双珠別ダムは、深い森がわずかに開けたところに、木立に囲まれて静かに横たわっていた。周りを取り囲む山肌の森林を移し込んで緑色に輝く湖面は、さざなみこそ立っているが極めて静かだ。周囲は白樺の林にまぎれるように、ノリウツギ、そしてカエデなどの木が茂る。数枚ではあるが、気の早いことに紅葉しているものもあったりする。秋には紅葉がきれいだということも、ガイドの文を読まなくてもなんとなく想像がつく。この黄緑や深緑の山肌が別の表情を見せたときのことを想像すればするほど、また来てみたいと思わされる、そんな北海道のよさにまた触れられた思いがした。虫が多いのも数日前と同じではあったが、静かな湖畔の森の陰で頬張る昼飯は、それなりにうまいものであった。
道はダムで行き止まりとなっていて、私は同じダート道を引き返すこととなった。アブやトンボが我が物顔に飛び交い、チョウもたくさん小さな花から花へと飛び移っていく静かな山間の林道で、人とすれ違うことはまずない。しかし往路で少しずつ高度を稼いでいたと見え、復路は若干だが楽に進むことができ、カエデやクヌギの木が茂る森を自転車で駆け下りていく爽快感を感じることができた。そして気持ちに余裕が出た分、ダイナミックな風景をより間近で楽しむこともできたような気がした。途中一度だけ、ライダーとすれ違った。トマムの方へ抜けられると思ったのに通行止めでがっかりしたと彼は語る。こんな熊の出そうな道によく自転車で入る気になりましたね、と。まあ、熊ではなく鹿に会えたのだからよしとしよう。
長かったダートの山道にトウモロコシ畑が現れると出口も近い。あまりに長いダートからついにとうとう抜けることができたという喜びが、軽くなったペダルを通して全身に伝わってくる。しかし舗装道路に戻ったからといって、ここが虫たちの世界であることは変わりがなかったようで、きれいな水のある森に住む赤トンボはそこいら中で乱舞するしうざいアブどももいるし、何といってもとろとろ飛びやがるバッタたちには泣かされた。車輪に飛び込む習性でもあるのかどうか知らないが自転車のすぐそばを飛び回り、周囲にはその轢死体がごろごろと転がっていたりするのである。やがて旧双珠別小学校で国道と合流し、あとはやたらと広くなった道を市街まで戻るのみとなった。トンボたちとともに駆けめぐった一日は、しかし厚い黒い雲によって幕を引かれることとなった。雨にならなかったことが幸いである。中央の市街にある温度計は25℃をさす。こちらにしてはおそらく暑いのだろうが、日が陰ったせいもあって至極さわやかだ。
レンタサイクルを返すためにいったん駅まで戻り、明日も借りるつもりなので営業開始時間を教えてほしいと物産館の人に伝えると、だったら明日まで貸してあげますよと。無料だというのにありがたい話で、明日はだいぶ楽になりそうだ。いつも土産物を買いあさるようなことはしないことが多いのだが、今回は何かしら金を落として行かなくちゃいけなさそうである。