関門・高知・関ヶ原(2000.7.21-30)


  1. 関門から広島、高知へ(7.21-25)
  2. 高知への滞在、帰路(7.26-30)  このページ

ホームへ戻る   ご感想はこちらへ


 翌日は天気も安定し、朝から晴天だった。しかし外に出ても湿気がむわっとくることがないというのは、土佐イコール南国という意識のあった私にとっては意外だった。週刊天気予報を見ればなるほど、あまり熱帯夜になることのない土地柄らしい。試験会場は土電(路面電車の土佐電鉄)桟橋線の終点の近くにあるという。土電は巨大な高知の街中の太い道路の真ん中に通された軌道を、防波堤にさえぎられて終点となるまで進む。最後の一駅わずか数十メートルは専用軌道となって、防波堤の際の、申し訳程度のホームを伴ってはいるけれどどう見ても引込み線にしか見えないありさまで、交差点の反対側の電停ですべての人が降りてしまったのも思わず納得してしまった。クマゼミ時雨は九州と同じように健在だったが、冷房のない会場に入っても港から吹き込む風は涼しく、心地よく試験を受けることができた。もっとも、ご当地問題の嵐にはげんなりとさせられたが。

 午後の面接試験は都心部のはりまや橋近くの会場へ移ることになっていた。受験生は交差点に目立つ電停に殺到してしまい、防波堤の陰に隠れていて使われている電停であるようには見えない起点の方にはほとんどやって来ず、私は余裕で席をとって移動することができた。都心部に戻ったので待ち合わせまでの時間も退屈することなく、縦横無尽に延びるアーケード街を探検して夕食のあたりまでつけたりもしてしまったが、いざ面接に挑めばこちらでもまたもご当地問題の嵐、よそ者の私に対する面接はわずか十分程度で終わってしまい、私は思いのほか早く解放されることになってしまったのだった。

高知城 解放された私は、その足で高知の市街地を歩き、10年前は訪れなかった高知城へ行くことにした。広い園地の中心に高くそびえる天守閣までの道は当然険しいが、登りきれば高台からはすがすがしい街並みが眼下に広がる。高知城は現存12城のうちのひとつであるといい、柱の一つ一つにどす黒い重みが感じられるし、中の展示で知ったのだけれど、石垣の中に刻印があるものがあるのだそうだ。いたずら対策か安全対策か、「あえてその場所は記さないことにする」という注釈がついていたりもするのだが、それはそれで、宝捜しっぽくて楽しそうな感じがする。そして天守閣の上に登れば、比較的近くを山並みに囲まれて海さえも山の内側に取り込まれてしまっているかのようだけれど、その中にはさまざまな大きさの建物が隙間なく密生している高知の城下町がすがすがしく見渡される。そして何より感動的なのは、天守閣のつくる日陰の心地よさだった。真夏日の気温の中にあって、通り抜けてくる風はこの上なく快く、疲れてほてった体を癒してくれたのだった。

 やがて夜になって、私は晩飯にと、この辺の郷土料理の一つであるらしい鯖の姿寿司なるものをいただいてみた。要はしめ鯖の頭の先から尻尾までの身の中に寿司飯を詰め込んで輪切りにしたものなのだが、値段に見合ったボリュームと格闘してとりあえず胴体を片付けたとき、「焼いてみますか?」と店の主人が尋ねてきた。この鯖の姿寿司はそれぞれの家庭で祭りのときに作られるもので、翌朝頭の部分を焼いて食べるのが子供にとっての、あるいは大人にとっても楽しみなのだという。「本当は一晩寝かせた方がおいしいんだけどね」と言いながら再びやってきた残りの部分は、香ばしくなって、また一味違ったおいしい味になっていた。


 高知の理科の教採は筆記試験の後、中2日置いて実技試験という内容であった。したがって翌日からは長い中休みとなるわけである。外は断続的に強い雨の降る天候であったが、私はとりあえず東の南国市方面を訪れることにした。まずはこのあたりの特産であるという長尾鶏の展示施設があるという後免へ向かう。細い路地に小さな建物が密集する後免の市街地を抜け、土電の細い軌道が舗装に溶け込むように刻み込まれていたり、道路の際の荒れた砂利場に溶け込むように延びていたりする太い道路を渡って、国道の方へ延びる道路へと進めば、道の周りの家や工場の隙間を埋めるように、トマトの温室や、早場米がすでに頭を垂れる田んぼが広がるようになる。薄暗い空の下、道幅はそれなりに広いけれど人の気配のあまりない道を30分ほど歩くも、目的地は定休日という、なんとも空しい結果に終わってしまった。

 私はすごすごと土電の軌道が刻み込まれた市街地まで戻り、気を取り直して竜河洞へ向かうバスに乗り込んだ。それなりに古風な味のある後免町の商店街を抜けたバスは、田畑の中にわずかに延びる家並みに沿って進むようになる。左手には後にごめんなはり線として開業することになる工事中の高架線が寄り添う。川を一つ渡れば、バスは野市の市街地へと入っていく。細い路地を埋め尽くす建物の中には時々蔵のような古いものも見受けられ、古くから成立している街であることがうかがえる。そして、そんな野市の街並みを縫うように延びる細い道をたどって北側に抜けると、目前には待ち構えていたかのような大きな緑の丘が立ちはだかった。丘の上には動物園があったり、竜河洞へ向かうスカイラインが延びていたりするようだったが、バスはそちらへは向かわずに、丘の麓を回り込むように、山地に囲まれた田んぼの中を進んでいく。山の上はガスに煙っていてそう高くは見えないけれども、進むにつれて道の険しさは確実に強くなってくる。やがて土佐山田町に入るとバスはトンネルを越え、道は一気に山道へと変わっていった。谷間の段々畑に沿った細い道を上り下りカーブを切り、トラックとの離合にも苦労しつつ、わずかばかりの集落を避けるように急カーブを切りながら斜面を駆け上り、やがてバスはようやく、竜河洞の入り口に到着した。

龍河洞 立ち並ぶ土産物屋街を素通りしてエスカレーターを上り、私はいよいよ竜河洞へ入洞した。もともと悪天候のせいで涼しい日だったのだが、入ったとたんの冷気に、やはり暑い日を選んでくるべきだったのかもなあと後悔した。それでも中の鍾乳洞はそれなりに面白い。至る所とにかく通路が狭いということが印象に残る洞窟であり、氷柱石に岩の花やカーテン、マリヤ様やお釈迦様や新巻鮭などといった、こういった所ではありがちといえなくもない自然の造型もそれはそれで楽しめるのだが、順路の最後に近づくにつれ、雰囲気はだんだんと異常な様相を呈してきた。突然道が広くなったかと思うと、そこいらじゅうに超音波が轟く異様な雰囲気が現れ、目を凝らして真っ暗闇を見つめてみれば、何やら小さな生き物が大量にうごめいているのである。すなわち、洞窟の出口付近はコウモリの巣になっていたのだった。ここばかりはフラッシュ撮影も厳禁とのことで、コウモリの発する超音波が作り出す不気味な雰囲気の中を多少不安を感じながら歩くというのも、そうそう経験できるものではなくそれはそれで面白いものだ。

 やがて洞窟の出口に出れば、そこには弥生人の生活の跡が残されていた。自然の作り出す鍾乳石とは異質のものとして、人の手によって作られた土器が、自然によって作られた鍾乳石の中に取り込まれるように存在する。その名を「神の壷」という。面白いことに、氷柱石から垂れる雫の下の石筍上に壷を置き、神の壷ができるかどうかを確かめる実験が、昭和12年から延々と続けられているのだという。60年あまりが経ち、壷の表面はだいぶ鍾乳石らしくなって、土台もほぼ隙間がなくなっているというけれど、氷柱石と石筍がつながって壷が取り込まれるまでには、当然まだまだ長い年月が必要であろう。なんとも気の長い実験であるが、とにかく実験して確かめてみようという精神には、職業柄頭の下がる思いがする。

 洞窟には博物館が併設され、道内で見つかった面白い岩や弥生土器が展示される。そしてさらに珍鳥センターと呼ばれる施設もあって、さっき見ることができなかった長尾鶏にも出会うことができた。人の背ほどの高さの止まり木から地面すれすれにまで伸びる尾が特徴的な鶏であるが、尾の羽根の一部が通常のサイクルで生え変わらずに延び続ける性質を持っているのだという。そして、羽根を傷めずに伸ばし続けるためには、「止箱」という、長い尾が入るスペースがあるために背が高くて大きく見えるけれど胴体が入る部分は体とほぼ同じ大きさしかない箱に閉じ込め、あまり動かないように育てなければならないのだそうだ。作り上げるのが大変であるという人間側の価値観が強調されているような展示であったけれど、鶏の立場に立ってみたときの辛さの方があまりにも厳しいものであるように感じられてならない。長尾鶏のひよこも飼われていて、そばで無邪気にピイピイと鳴いていたりするのだけれど、この中からも立派な長尾鶏として、美しいけれどかわいそうな一生を送る羽目になるものが出てくるのかと思うと、哀れな感じがしてしまうのだった。

 私は高知方面へ戻るバスに乗り込み、竜河洞をあとにした。土佐山田から野市へトンネルを越えると、田んぼの向こうの山に囲まれた先に家並みが密集しているのが見渡せる。高度も高いのでかなり見晴らしがよく、心なしか明るい雰囲気にも包まれるようになった。バスはその家並みへ向かって高度を下げながらのどかな道を進み、やがて細い道の入り組む野市の市街地へ到着した。

のいち動物公園の川獺 街中で昼食を取り、私はバス道を引き返すように歩いて街の北側へ出た。竜馬記念館を素通りして、三宝山という街を囲むような丘の上へ登り、私はのいち動物公園を訪れた。丘の斜面に開拓された起伏に富む園内にはいろいろな植物が植えられた散歩道のような順路がめぐり、所々のパーティションの中にいろんな動物が飼育されている。室内にいるものもいるが基本的には屋外展示で、雨も上がって快適な順路を巡れば、私と同じようにほっとしているかのような動物たちの明るい表情にたくさん出会うことができる。大きい動物はキリンにシマウマ、アシカにチンパンジーくらいなもので、飼育される動物の多くは小さな動物たちである。それだけに、好奇心旺盛なカワウソたちのしぐさや、マンドリルのゴリラのように大きな雄とニホンザルみたいに小さな雌がいきなり交尾を始めたりする場面、警戒するミーヤキャットや警戒するワラビー、愛嬌もののマレーグマなど、いろいろな小さな動物たちの営みに心を奪われてばかりの散歩となった。

三宝山より 動物園の駐車場の屋根にはソーラー発電システムがあり、そして隣接する緑の山の中には風力発電機も回る。風車の足元には人だけが入れる道があり、近づいてみれば、風を切る音をひゅんひゅんと撒き散らしながら回転する風車のでかさが、遠くから見上げるよりもいっそうダイナミックに感じられる。そして坂道からは緑のじゅうたんも目立つけれど建物もたくさん建つ野市の市街地と、その向こうに広く大きく青い海が横たわっている様子が一望のもとになった。私はあまりこの野市の情報を持たずにあてずっぽうでこの地を訪れたようなものだったが、それだけにこの街を眺められる格好の場所を見つけることのできたことがとてもうれしく感じられた。この三宝山の風車は、戻った野市の市街地からもよく見える。街の中にはその後開業することになるごめんなはり線ののいち駅がまだ建設中で、高架の足元にはぽつねんと一軒だけ建つコンビニの周りにコスモスの咲き誇る休耕田が広がるのみ。駅が開業した今、果たしてこのコスモス畑は、残っているのだろうか。

 夕刻に差し掛かり、私は高知市への帰路に着いた。バスは早場米の穂が垂れる田に間隙を埋められる南国市の街並みをたどるように進み、後免からは舗装されていない荒れた砂利道のような土電の専用軌道に沿う道を進んでいく。土電のほうは安全地帯のない電停ばかりが続くようだ。屋根があればまだましな方で、民家の入り口に面するものもあったりする。軌道は所によりぼうぼうの草に埋もれ、車道との境もなく、車道側のレールはアスファルトに接する。これでは枕木の交換もままならないのではないだろうかと心配にもなってしまう。そんな、線路というものに対する認識を覆されてしまいそうな道を走っているうちにいつのまにか街の規模も大きくなり、大きな川を渡って知寄町を過ぎれば、バスはついに渋滞に巻き込まれてしまった。実際のところ、土電の起点のある後免町でバスを降りて土電に乗り換えれば渋滞の心配もないばかりか運賃もずっとバスで高知まで来てしまうより安くつくらしく、失敗したかもなあと後悔しながら、私は何度も何度も追い越していく電車を見送ることしかできなかった。そして高知の市街に戻ればまた大雨に降られ、最後まで惨めな思いをすることになってしまったのだった。


 高知での休日の2日目となった翌日は、前日よりはましな天気ではあったがまだまだ不安定で、晴天かと思ったら突如として大雨にも見舞われるような空模様であった。今日は足下の高知市内をいろいろと巡ろうと考えた私はまず高知市街を南下するバスに乗り込み、桂浜を目指した。バスは土電の線路を真ん中に抱く大通りを進み、一昨日も見た引き込み線のような電車の終点をかわしてさらに進むとすぐに、その背後にそびえていた丘を貫くトンネルへと進んでいく。トンネルを越えても周囲にはそれなりに街並みが続いていき、高知の市街の広がりを感じさせてくれるが、大きな団地を通り過ぎると道はだんだんと細くなり、街は素朴な表情を見せるようになってきた。道の両脇を固める家並みに古めかしい味わいさえ感じられるようになり、サツマイモ畑も車窓に目立つようになってくると、バスは程なく海沿いの道へと進んでいく。今日の海はちょっと荒れ気味と見え、青い海は白い波しぶきをそこかしこであげ続けている。そしてバスは高台へ登り、フェニックスらしき並木が醸し出す南国ムードの中、海の眺めを我がものとするかのように走っていったのだった。

桂浜 バスの終点には商店などが雑多に立ち並び、どこに何があるのかを把握するのに少しばかり時間がかかってしまったが、浜辺の様子がきれいの一言につきるということを理解するのにはほとんど時間を必要としなかった。桂浜を眺める高台には坂本龍馬像が立ち、その下に広がる砂浜は、竜神岬と竜王岬という二つの荒磯に挟まれて弓なりに数百メートルほどであり、さほど長いわけでもない。遊泳は完全に禁止されているとのことだったが、大きな波が絶えず海岸に押し寄せ、岬の岩場に激しく衝突して白いしぶきの花を開花させ、その余波がなだらかな砂浜の方にも及んで、海岸線がかなり長い距離を前後する様子を目の当たりにすれば、遊泳禁止というのも納得せざるを得ない感じだ。太陽に照らされた海は濃く青く、そこに加わる岬の黒い岩と泡沫の白色は、激しくも美しい海岸線の風景を絶えず作り替えている。

土佐の闘犬 桂浜の周囲は完全に観光地化されていて、土産物屋の類もひしめいているのだが、ユニークな施設として、闘犬場というものがあった。化粧まわしをつけた横綱の土俵入りが披露された後は、大型犬同士の壮絶な戦いが繰り広げられる。目があった瞬間に取っ組み合い、かみつきあい、よだれと血にまみれてもなお噛みつきあう。しっぽが立っている限り戦意があると見なされ、痛さに耐えかねて鳴き声をあげた者が負けということになる。入場料は多少高かったけれど、ほかの何にも例えようのないこの迫力を目の当たりにすることができたことが私は桂浜うれしかった。ついでに見せてもらえたのがよさこい鳴子踊りだった。鳴子を使うことと伝統のかけ声を守ることという二つの条件さえ満たしていれば形式は自由であるのだといい、この土佐の気風をよく表しているものであるという説明の後は、大音響のステージで正調そして現代風アレンジの、これまた迫力の踊りを楽しませてくれた。昨日も見た長尾鶏がまたここでも見られたし、土佐の貝類や伝統工芸の珊瑚の加工に関する展示もあり、とりあえず海だけを眺めるつもりで訪れた私にとってはあまりにもたくさんの楽しみを感じることができた所だったのだが、引き上げる前にもう一度私は本来の目的であった海を眺めていくことにした。雲はまだ多かったが、暑さが感じられるほどの日差しも得られるようになっていた。しかし波は決して穏やかではなく、砂浜にも磯浜にも絶え間なく激しい波がしぶきの花を咲かせ続ける。土佐の人々のおおらかでありながら激しい精神、竜馬のような高い志をもつ人物、闘犬のような激しい文化。これらはこの桂浜の荒波にもまれながら育っていったのだということを、私は理解することができたような気がした。

 桂浜を照らしていたのと同じ南国の明るい太陽の下を走るバスに乗って、私は昼のはりまや橋に戻り、昼食を求めてアーケードの商店街の中をそぞろ歩いていたら、共通の建物の中に共通のテーブルがあってその周りを食べ物やなどが囲むひろめ市場という施設にたどり着いた。鯨料理にも抵抗なく手が出せてしまうほど、格好をつけないぶん安く食べられるのが何よりうれしい。しばらく食べていなかった血の気の多い味を堪能することができたが、不安定な天気は商店街の中も蒸し暑くさせ、夏なのだから仕方ないとはいえ、決して過ごしやすいわけでもなかったりする。

 午後は竹林寺行きのバスに乗り込み、市街にそびえる五台山へ向かった。はりまや橋から大通りを少しだけ東進したバスは、知寄町から裏通りへ入っていく。もっとも街並みのたたずまいこそ裏通り的だけれども、道幅は相変わらず広いままである。やがて渡る川も、もしかしたら入り江なのかもしれないと思わされるほどのとてつもなく太いもので、何事もスケールの大きな市街だなあと思いながら身を任せていたら、バスは緑の丘の麓にさしかかり、そして細い登山道に入り込んで、急な坂道を見る見るうちに登っていき、木々の間からかいま見える高知の市街も、徐々に視界が広々と開けるようになってきたのだった。

五台山より 五台山の展望台に登れば、あまり海という感じがしないほど深緑の山並みの中に取り込まれてしまっている浦戸湾へ向かって流れ込む、川というには太いような気がする流れの周りに、様々な建物が密集する高知の市街が広がっている様子が一望のもとになっていた。一昨日にお城から眺めた市街も悪くはなかったけれど、ここからはそれよりもさらにすばらしい眺めを我がものにすることができるのである。「海」の方はむしろ急斜面の険しい山に囲まれて、湾岸の石油基地を除けば緑が多いのだけれど、「川」はしっかりと護岸され、その西側の平野は山の麓まで建物に埋め尽くされる。それでいて東側には黄緑の田畑が目立ち、市街は方向によっていろんな表情を見せてくれている。この五台山からの眺めというのは実に、高知という街の特徴をしっかりとつかむことができるようなものなのであった。朝の桂浜の波は荒かったが、充分に内海であるこの辺りでは波はほとんどないように見受けられ、北側の厚い雲に向かって、晴れている南の方から、風はさわやかに街並みに吹き付けていた。

 隣接する森の鬱蒼とした中には竹林寺が開かれ、五重塔や古い厳かな雰囲気を生み出すお堂を横目に境内を通過し、階段を下れば、牧野植物園の南門の前に茶店があった。休憩がてら、私は高知にきて以来気になっていた「アイスクリン」を食してみた。実は牛乳を使っていないのか、バニラ味とは思えないさっぱりとした食感で、まるでシャーベットを食べているかのような感じを受けた。

牧野植物園 引き続き訪れた牧野植物園は、その名の通り県内出身の牧野富太郎博士を記念し、五台山の中にある一つの丘の周りを取り囲むように開かれた園地で、高台にあるため所々下界も眺められ、ただ散歩するだけでもすがすがしい気分にさせてもらえるのだが、その広い園地には実に様々な植物が植えられている。熱帯や湿性、そしてユニークなものとしてカルスト地形までもが再現され、その植生が展示されている。記念館には牧野博士の生涯が記される。学問を好む風土であるという佐川に生まれた博士は何につけても学者肌な人であり、好きな植物についてとことんまで突きつめるように研究することを好む人であったという。植物を観察するときは非常に細かい点までスケッチを行って特徴を明らかにし、経済的困難にも負けないその努力は、実に500種以上の植物に名前を与えるまでになっていったという。本当に好きでなければなかなかここまでできるものではないということは、まがいなりにも学問というものに触れている私には身につまされるようによくわかることで、博士が名付けた植物が植えられるコーナーをゆっくりと歩きながら、私は日本の植物学の父という称号が博士にとってふさわしいものだということを強く感じさせられていた。

地球33番地 やがて街並みに夕暮れが訪れる頃、私は五台山を周回して市街に戻るバスに乗り込んだ。市街の南東側の浦戸湾岸の深緑や田畑の中の平野をかいま見つつバスは山を下り、寄り添っていた川が海に変わるまさにその地点にかかる大きな橋を、眼下に川とも海ともつかない広い水面を眺めながら渡れば、間もなくバスは市街に戻っていった。途中の宝永町から少しだけ北側に歩けば大きな川があって、その中に「地球33番地」のモニュメントが見られる。その場所が北緯33度33分33秒、東経133度33分33秒にあたるのだという。基本的にしっかりと護岸された川だが、その周囲は川面に近いところまで降りられるようになっていて、釣りに興じる子供たちの姿も多い。モニュメントに通じる川沿いの小道は「33やき(ささやき)通り」、近くに架かる、寛永通宝の埋め込まれた一文橋を渡る幹線は「地球33番地通り」を名乗り、いろいろあやかるものが多いユニークな土地であるようなのだが、夕暮れの訪れた街なかの川は、あくまでも素朴な日常を映し出すのみなのであった。


 そして、中2日を高知での休日として過ごした次の日が、すでに忘れかけつつあった教採の実技試験ということになった。高知市の中心部から土電で東へ進んだ所にある教育委員会の施設で、実際に簡単な実験をさせられるという、珍しくもそれなりにおもしろい試験をこなし、完全に解放されたのは昼下がりであった。土電で5分も東へ移動し、ひっそりとした細い道の集落を抜けて大きな国道に出れば土佐大津駅が近かったけれど、市街へ戻る列車は50分ほどなく、不安定な空のもときわめてひっそりとした雰囲気が漂うばかり。しかしながら国道に面したファミレスにはそれなりに車が集まり、寂しさも多少は紛れていく。

 すぐ近くの山並みも雲に煙る車窓を眺めつつ、私は西へ向かう列車に乗り込んだ。高知駅でも下車せず、私はさらに西を目指した。列車はしばらくは住宅街の中をこまめに止まっていくが、やがて少しずつ少しずつ、車窓に緑の姿が増えていく。高知商業前を過ぎてその傾向はさらに顕著になり、朝倉を過ぎて郊外線となった土電とも併走するようになると、辺りはいよいよ山深くなってきた。

伊野の街並み 私は伊野駅で下車し、街の中へと歩みを進めた。伊野は土電の終点でもあって、街の路地にまで電車が入り込み、軌道と路地がまさに一体化をしている。錆びきった謎の引き込み線も、普通の車の駐車場の中まで延びて途切れているという、なんとも不思議な風景にも出会うことができる。土電はもともとこの街で作られた紙を高知方面に運ぶために造られたものなのだそうで、もしかしたらその名残なのかもしれないなあと私は想像を巡らせた。線路が途切れても道は小高い丘の麓に延びていき、その道沿いには、和紙の産業が盛んだった頃にここがこの辺りの中心となる都市だったということを容易に想像させてくれるような、それなりの規模を持つ古めかしい街並みの中に、土壁で瓦屋根のどっしりとした紙商人の館の跡が混じっていたり、さらに仁淀川に向かって進めばパルプ工場の煙突も立ち並んでいたりもしていた。和紙の街だと聞いていたのにパルプとはどういうことだろうと私は不思議にも思ったが、その謎についても解説されていることを期待しつつ、私は街なかにある紙の博物館を訪れることにした。

 和紙を造っていた建物を模したのか古めかしく造ってある建物、そして藩札を模した和紙製の入館券と、それなりに雰囲気を感じさせてくれる博物館で、私は土佐和紙のことを軽く学ぶことができた。いろんな材料の使い分けでいろんな用途に使われた和紙であり、謎だったパルプ工場についても、木材パルプを補助材として使うことがあるという説明で一応は解決を見ることになった。和紙作りの中にも危険な工程が含まれているといい、煙突くらいで驚く必要はないのかもしれない。また、和紙を造るための道具の作り方についての展示もあった。こういう所では紙そのものについてばかりに目が行きがちになるものだが、道具がなければ紙は作れないという当たり前のこともしっかりと思い出させてくれたし、さらには特別展として、子供たちが紙だけを材料にして造った作品の展示もあって、なかなかの力作揃いで楽しい展示になっていたのだった。

仁淀川 そんな古めかしい蔵作りの建物や、たくさんの煙突が並ぶ伊野の市街琴平神社よりも、それが面して流れる仁淀川の堤防に立ってみれば、大きな緑の山を縫うように伸びる広い河原とその中をゆったりと流れる広い川面が織り成す、ゆったりとした景色が目の当たりとなって、街なんて人間なんてこの大河と山並みに比べれば全然大した存在ではないと思わされてしまう。こんなに広くてきれいな川があったからこそ、紙造りも盛んになったのかもしれないわけで、母なる川には勝つことはできないというわけなのかなあなどと思ったりもしながら、私は蔵の並ぶ古い街並みや、蔵を模した図書館などもあったりする市街へ再び舞い戻っていった。町役場の裏手の高台には琴平神社という小さな社が建つ。境内に登れば伊野の市街をそれなりに見渡すことができる。高くもなく低くもなくといった感じで仁淀川の姿は目に入らず、橋の向こうの山並みまでいっぱいに街は広がり、このアングルなら今のこの街でもそれなりに大きく賑わっていそうに見えるものだ。

 小さな伊野の市街を巡っているうちにだんだん夕刻が近づいてきて、私は列車に乗り込み、田んぼの風景が車窓に広がる列車に身を任せつつ、高知の市街へ戻ることにした。来るときに開いていた途中の駅もカーテンを下ろしていたりして、そろそろ店じまいの時間なのだなあということが感じられるようになっていた。土讃線の列車は基本的には土電と並走しているので、寄り道でもしつつ適当に乗り移ってみるかと、私は旭という駅で街なかに出てみることにした。だいぶ高知に近づいたこともあってか、旭駅の周囲や電車道に通じる路地、そして広い電車道沿いには小さな店から家電量販店など、いろんな店が並んでそれなりに賑わいを見せる。電車道の車の往来もそれなりに激しい。そんな大通りのど真ん中にある電停から私は電車に乗り込んで、より密接に賑やかな雰囲気に触れ合いながらがたごとと、高知の繁華街へと向かった。

 舞い戻った高知の商店街は土曜夜市というちょっとした祭りが催されていて、アーケード街では地元のTV局がうちわを配ったり、人出も多くて今まで以上に活気があるように感じられた。私にとって高知では最後となる夕食も再び訪れたひろめ市場でほろ酔い気分になっているうちに終わり、あとは賑やかなアーケードをぶち抜くように歩いていくのみとなった。しかし夜市はあまりに活況で、すんなりと歩かせてはもらえない。電子楽器の生演奏や金魚すくい、各種縁日系の出店、テーブルも出て、人々の熱気もものすごく、うちわが必需品となるわけがよくわかる。高知という一つの街に4日間も腰を落ち着けることになってしまった今回の旅の最後はこのように、賑やかなうちに締めくくられることになったのだった。

 それでもいつまでも祭りの中に身を置くわけにもいかず、長い待ち時間を高知駅で過ごし、私はムーンライト高知号に乗り込んでひっそりと、深夜の高知をあとにすることになった。当然であるが、列車はひたすら真っ暗闇の中を進む。窓を横切る灯りの数も大して多くはない。これこそ旅の終わりにふさわしい車窓、この旅でできた新しい思い出に存分に浸ることができる車窓であるのかもしれない。


 ムーンライト高知は京都行きであるが、大阪で半分の客は下車してしまう。新しい朝が明けた車中は、束の間のくつろぎの空間と化していく。外は快晴とは行かないまでもよく晴れている。久しぶりに夏らしい暑さを味わえそうな感じがしたが、降り立った早朝の京都駅は意外と暑いという感じはない。朝っぱらから蒸し暑い東京の方が異常なんだなと納得したが、それでも休日の朝っぱらだというのに大した混雑を見せる長浜行きの列車には多少違和感を感じたりもした。

浜大津 そのまま東海道線をひたすら上って帰宅する方法もあったわけだが、途上に寄っていきたい場所があり、その時間調整の意味合いで、名前はよく聞くけれども下りたことのなかった大津に私は下車し、朝のすがすがしい空気の中、浜大津の方までぐるっと一周してみることにした。県庁所在地だけあって中央通りは立派な並木道になっていたが、それ以外の通りはごく素朴、古めかしい建物もかなり多く建っていたりする。これでは朝から開いている食事屋など当然望むべくもないなと思いながら、私は京阪の電車道沿いに琵琶湖の方へ進んでいった。琵琶湖に面した浜大津駅付近は近代的に見えたが、それでももっとも印象的だったのは、朝の琵琶湖が輝いていたことであったという、都市というよりは素朴なまちだったなという印象を私は大津に対して持ち、列車の旅へと戻ることになった。

 引き続いて乗り込んだ長浜行きの列車も相変わらずの混みようだったが、対照的に守山を越え、野洲川を渡り、大津から離れるにつれ、車窓ののどかさが増していく一方であった。建物の間には田んぼが目立つようになり、次第に山並みもそう遠くないところに現れるようになる。基本的には晴れていて、一面の田んぼは鮮やかな緑に輝くが、特に左側、西側には低く黒い雲も立ち込めている。昨日見た今日の高知の予報は台風の外縁に当たって大雨ということだったから、考えようによっては西の方の荒天から逃げる旅をしているということになるかもしれない。土地に起伏があまりない分田園風景は余りにも広々と、むしろ地方の辺境よりも広々とした、のどかな車窓が続いていく。米原から乗り継いだ東海道線の列車は、輪をかけた混雑となった。醒ヶ井を過ぎると次第に列車は国境の険しい山並みへ進んでいく。田んぼが広がっても、琵琶湖沿いとは比べ物にならないくらい、背後の山までの距離が短い。窓にはぽつぽつと雨が降り、天気までもが峠道らしくなってきて、伊吹山と思しき山もすっぽりと雲をかぶってしまっている。

 詰め込まれていた乗客の大半と一緒に、私は関ヶ原駅で下車した。伊吹山への玄関口になっているのかバス乗り場には長い列ができていて、ここまでの列車が混雑していた理由がとてもよくわかったのだが、街の中に出て史跡を巡ろうという人はあまりいないようだった。この関ヶ原にはどうもかなり広範囲に史跡が広がっているようで、それをいちいちめぐっていくのはなかなか大変そうだなと思ったが、商店街から高台へ上ってふと振り返ったときに広がる、関ヶ原の山並みに囲まれた深緑の大地はそれはそれで印象的なものだ。風もむしろ涼しく、私は心地よささえ感じていた。そもそも私がこの地を訪れたのは、町の施設で忍たま乱太郎関係の催しがあったからだったりする。絵本の原画が展示の中心で、一応全巻そろえてはいるのだが、原画で見ると鮮やかな色合いや細かな線、絵の具の盛り上がりなど、また違った印象が感じられるものだ。

関が原 そのまま駅まで引き上げてもよかったけれど、せっかくだから近くの博物館で関ヶ原の戦いに関係することを予習しつつ、周囲の史跡をめぐってみることにした。6時間の間に小早川の裏切りに因って形勢が大逆転したという戦いがかつてまさに戦われた盆地、その戦いのもっとも激しかった辺りも、今は田んぼに埋め尽くされてのどかなばかりだ。笹尾山という小高い丘の斜面に石田三成の陣地あとがある。無理なくいける範囲ではもっとも手軽に行ける高台だと思うのだが、今は宅地や工場の並ぶ盆地に展開していたごま粒ほどにしか見えないであろう兵士たちをこの高台から見守っていた人がいたと考えると、特に際立った動きを見せないこの平和な世の中を、なおのことありがたがらないといけないなあ、などと私は歩きながら感じることになった。天気は不安定で、厚い雲を強風が吹き流し、強い陽射しと雨が同時にやってくる。しかし日陰にいる限り、涼しく快い散歩を楽しむことができたのは、とてもありがたいものだった。

 こうして今日見ておきたいものを見終わった私は、再び関ヶ原駅から東海道線に沿って家路を進む旅を続けることになった。東海道線がいつ乗っても込んでいるのは鉄道会社のせいなのかもしれないなと、大混雑の2両編成の電車に思いつつ。電車は関ヶ原を囲んでいた山並みへ分け入って深い緑の中を進み、険しい山を抜けてたどり着いた大垣は、この旅で訪れたどこよりも蒸し暑い感じを受けた。適当に食事も済ませて、私は豊橋、浜松、熱海とひたすら東海道線の快速や普通列車で東進を続けた。昼間の東海道線はもう何度となく乗ってきたが、緑色が何層にも重なって茶の味と同じような深みを車窓に与える茶畑の風景は、何度見ても飽きることはない。富士山自体はすっぽりと雲をかぶってしまっていたけれど、その富士山がこの辺りの雲をすべて回収してくれたのか、沼津辺りからはようやく抜けるような青空の、はっきりとよい天気であるといってよいような感じになった。しかしよい天気の車窓はすぐに、夕暮れの風景へと変わり、帰宅する頃にはまた、夜の闇が周囲を支配するようになってしまっていたのだった。


このページの先頭へ戻る
前のページへ戻る

ホームへ戻る
ご感想はこちらへ