関門・高知・関ヶ原(2000.7.21-30)


  1. 関門から広島、高知へ(7.21-25) このページ
  2. 高知への滞在、帰路(7.26-30)

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 毎年夏の恒例行事となってしまっていた教員採用試験全国行脚、今年は西日本の日程がうまい具合に分散し、佐賀、広島、高知と、無理なく移動できる範囲で3県に願書を提出することができた。しかし例年と違っていたのは、講師としての勤務先の仕事が試験の前日まで残っていて、どうしても片道は飛行機に頼らざるを得なかったことである。旅支度の大荷物を背負って出勤し、用事が済み次第そそくさと退勤して、その足で品川から京急線で羽田空港へ。沖縄サミット関係の厳戒態勢も午前までのことだったらしく、おそらくいつもどおりだと思われる賑わいを見せている空港から、私は夕方の福岡行きの便に搭乗した。雲もそんなに多くなく気流も安定し、下界には多摩川沿いに府中競馬場や小金井公園、横田基地や多摩湖、奥多摩湖と、学生時代ホームグラウンドだったあたりの上空が一枚の地図のように広がっていった。

 飛行機はあっという間に西進を遂げ、大濠公園の上空から福岡空港へ、極めてあっけなく到着。関門トンネルも越えないで何が九州かという気もしなくもないのだが、日の長い夏の九州は、もう18時台とは思えない明るさを未だ保ち、そして外の蒸し暑さは、ここが間違いなく九州であるということを認識させてくれる。私は最初の目的地の佐賀へ向かう高速バスに乗り込んだ。19時を10分も回ってようやく日が傾いたことが感じられるようになった、夕暮れの風景の中をバスは走っていく。だだっ広い空港と住宅地が道路一本で接する市街空港、周辺の道路はかなりの渋滞を示していたが、やがて渋滞から抜け出し、住宅街の上空を行くような都市高速から、家並みの隙間もだいぶ開きやがて緑色の山肌しか見られなくなった九州自動車道へ、軽快に進んでいくようになった。鳥栖から長崎自動車道へ入る頃になると周囲はますます暗くなってくる。道は街を外れた高台を行くようで、やまのきれめからは、照明がぎらぎらとし始めた街並みが遠くのほうに見えることも。やがて20時を回り、ようやくもう夜といってよい暗さになった佐賀大和インターで高速を降り、郊外型の灯りのついた店がわずかばかり並ぶ道を、バスは佐賀市の中心部へ向かって走っていった。一応県庁所在地である佐賀市だけれども、宿までの道は暗くて至って寂しいものだった。


 そして、朝の蒸し暑さと猛烈なクマゼミ時雨は、九州にやってきたということを改めて私に痛感させてくれたのだった。翌日私は蒸し暑い中佐賀県の筆記試験をこなし、教育方法の名前をかなり忘れていたことを悔やみながら、地図上で会場から近いように見えた鍋島駅まで、暑い市街地の中、時折現れるため池のような水路に涼を求めつつ歩いていった。
鍋島駅
 古めかしい木造の駅舎が小さな神社の周りの住宅街の中に溶け込んで素朴な街の風景を作り出している鍋島駅から、私は普通列車乗り継ぎの旅を開始した。怒涛のような試験と街歩きの後の佐賀平野の広大な緑は、目だけでなく体も心も癒してくれる。そんな開放的な緑色の風景が広がる長崎本線から、鳥栖で鹿児島本線に移ると、同じ緑ベースの風景でも、起伏に富んで丘もすぐそばに迫り、工場や建物の姿も頻繁に混じる落ち着きのない風景へと変わっていく。二日市を過ぎれば建物の密度も高さも増し、車窓はあっという間に都会の風景へと変わっていった。

 博多で乗り換えずにそのまま列車に乗り通すというのも、九州外に住む者としては珍しい経験かもしれない。住宅街や商店街は福間までそれなりの規模のまま連続していくが、かといって北九州市まで連続しているのかと思いきや、福間を過ぎればまた、山間の田園風景が広がるところも見られるようになった。佐賀と比べてもひけを取らない、奥行きのある緑色の風景。さすがに快速停車駅の近辺には市街が広がるが、福岡市と北九州市は決して連続してはいないものらしい。折尾を過ぎて北九州市に入ると、右手には街並みが広がり、そして左手の海側にはあからさまな工業地帯が広がるようになった。昔は貨物側線がたくさん走っていたと見え、列車は広々とした中を走っていくように感じられる。八幡の街には密集する建物の隣にすぐ帆柱山が控え、堂々とした風景が作り出され、そして戸畑では大きくて赤い若戸大橋が街の風景となっていた。

小倉城 小倉は東京から新幹線に乗れば乗客の半数近くが降りる駅で、どんな駅なのだろうという興味を持っていたのだが、私はその好奇心を満たすべく小倉駅で下車した。モノレールに沿う通り、そしてそれに交わる大きな通り、あらゆる通りが賑やかな、まさに大都会といった風情である。大通りだけではなく細い路地でさえ、旦過マーケットのように商店のひしめく活気あふれる街となる。そんな街並みの一角を、小倉城の再建ながら白い天守閣を中心とする緑地帯が占めていて、単なる乗換駅にとどまらない、楽しもうと思えばそれなりに楽しむことのできるものがありそうな感じがする。しかしながら当然暑さは相変わらずで、涼しいときに買い物を楽しみながらゆっくりめぐってみたいものだと、私は多少ばてながら思うことになった。

手向山より バラエティーに富む紫川の橋を渡ったりして適当に歩いて、たどり着いた西小倉の駅前から門司方面のバスに乗り、私は手向山を目指した。大きな建物の密集する小倉の市街地は砂津でほぼ終わり、バスは線路沿いの道を進むようになる。線路とはいっても工場に囲まれて何本も平行に走る貨物線で、やはりどこか特殊な風景が作り出される。手向山は小倉と門司の中間の、どちらの市街地からも仲間外れにされてしまったかのような深い緑の森の上にある。その森の中を頂上まで登ってみれば、眼下には関門海峡が一望の元に広がった。普段は全く違う土地であるように考えている本州と九州を分ける海峡はきわめて細く、下関の街も手の届きそうな所に広がっている。そして大きな船の行き来するその川のように細い海峡は、たくさんの建物に囲まれながらも、穏やかに横たわる。戦前は要塞として立ち入り禁止になっていたといい、その名残の弾薬庫らしきものがコンクリートブロックで口をふさがれて公園の中に残っていたりするけれど、現に目の前に横たわっている海峡の風景は、時折列車の音がする以外は、静かで平和そのものとしか言いようがない。

 私は手向山の麓のバス停からバスで門司駅に出た。構内は線路が何本も走って広々とし、ホームは長く、往年の名駅といった感じがあるが、山陽線との分岐はデッドセクションがあることを除けば、地下鉄を分けるようにさりげない。そんな門司駅から列車に乗り、そろそろ夕方にさしかかろうとする頃、私はついに九州の鉄道夕暮れの関門海峡の起点である門司港駅にたどり着いた。駅舎が重要文化財になっているレトロの街だとかいろいろ前評判は聞いていたし、路線図で本線系から飛び出た位置にあるという奇妙さや、先祖がかつてこの地で鉄道員をしていたというゆかりもあり、ここも私にとってぜひ訪れたい場所であった。

夜の門司港駅 なるほど、四角くて白い洋風の石造りの駅舎は、その前に立っただけで、来てよかったと感じさせてくれる不思議な存在だ。駅の周辺には駅と同じような、絵で見た大正時代の港街の雰囲気を髣髴とさせる洋風の石造りの建物が、銀行だったり船会社だったりしながらたくさん立ち並んでいて、歩くだけでも楽しさを感じさせてくれる。そして、関門海峡も駅の近くに横たわって、大きな関門橋が、二つの深緑の陸地を結んでいる。夕暮れから夜にかけてのこの街は、時とともにその美しさを増していく。夕陽は海峡の向こうの下関の山並みや街並みをだんだんと赤く染め上げていき、暗くなるにつれ、対岸には緑の山の代わりに光の粒がたくさん現れるようになった。こんな、刻一刻変わっていく海峡の風景を眺めながらのビールはうまくないはずがない。やがて街並みが完全に夜の闇に包まれれば、関門橋は美しくカーブを描く光の点となって、暗くなった火の山をバックに堂々とした存在感を与え、門司港の白い駅舎は美しくライトアップされて街の中に浮かび上がるようになっていったのだった。


 レトロな港町は、朝もすがすがしい。翌朝私はまず洋館の続く街中からバスに乗り込み、九州最北端の和布刈(めかり)公園を目指した。大きな建物の並ぶ市街地を抜けたバスはだんだんと細い道へ分け入り、大きな関門橋のたもとへ向かっていく。

めかり公園に架かる関門大橋 めかり公園は市街地を外れた小高い山の麓に広がり、園内には上空に山の中へ吸い込まれていくように架かっている関門橋の下をくぐるような格好で、海沿いに観潮遊歩道が通っていた。ここまでくると本州は、まさに手を伸ばせば届きそうなくらい間近に横たわるようになり、下関にそびえる日の山は堂々と、九州側にもその影を落とす。対岸との間に延びる海峡は、川としては広いが海であるとは信じられないくらい狭く、時折行き交う大型の船も、どことなく肩身が狭そうだ。関門橋のたもとの神社の辺りでは対岸までの距離もより狭まり、歴史的事実としていくつもの戦いの舞台にもなった本州と九州という大きな二つの陸地のせめぎあいを実感できる地形にもなっていたが、今日の関門海峡は晴天のもと、きわめて穏やかに二つの陸地を分けるのみだ。

人道トンネル内の県境 園地の中には、関門人道トンネルの入り口があった。この辺りには人家はないのに、入り口のバス停ではたくさんの高校生が門司や小倉方面のバスを待っていて、彼らはもしかして海峡を渡って通学しているのだろうかなどと思ったりもしたが、実際に自転車も乗れる大きなエレベーターで地下に降り、コンクリートの壁がペイントされていたり、一番深いところに県境を表す線が引かれていたりする長いトンネルを私も歩いてみれば、買い物袋を下げた主婦のように別に気取ることのない普段の通行人の姿もたくさんみられ、生活道路としても存分に機能しているらしいことが感じられた。そんな人々と同じように私も海底の県境を越え、また大きなエレベーターに乗って下関側の地上へ出れば、さっきまで対岸に見えていた大きな火の山はさらに大きくなって目の前にそびえ、逆にさっきまでいた和布刈の園地や門司港の高い建物が小さくなって海峡の向こうに横たわっている。ほんの10分ほどで目の前の海を越えたということが、瞬間移動でもしたかのようなどことなく不思議な感覚を呼び起こしたのだった。

みすもそ川公園より 「みすもそ川公園」として整備されているこの辺りは、歴史的には壇ノ浦といわれ、古くは源平の最後の合戦が行われたということで有名だが、近世でも長州と外国のせめぎあいの場所になったりと、歴史の物騒な部分の舞台にもなっていたところらしい。しかし今日の海峡はそんな物騒なものを微塵も感じさせることなく、外国の大きな船も、そんな歴史を知ってか知らずか悠々と航行するのみの、きわめて静かなものだった。そんな静かな海峡沿いの国道を下関方面に向かうと、白い土台の上に竜宮城のような朱色の神殿が印象的な赤間神宮が建つ。安徳天皇が夢見た水底の都のイメージであるという歴史を知ると哀しいものもあるのだが、華やかな神殿は確かに幼帝の魂の慰みになっていそうな感じだ。

 さらに駅の方面へ進み、私は唐戸市場へと入っていった。日曜なので閉まってはいるが、その周りに建つ建物は古めかしく、中には門司同様洋館もあったりする。国道へ合流する道沿いには商店街も開け、それなりに賑やかそうな印象を与えてくれる。この唐戸の市街からは、対岸の門司とを結ぶ高速艇の乗り場があった。小型船だけに停泊中は揺れまくるのだが、走り出すとすさまじいばかりのスピードで、タンカーが行き来する合間を見計らうかのように穏やかな海峡を豪快にすっ飛ばしていき、スリリングな船旅を楽しむのもつかの間、船はあっという間に門司港の駅前まで戻っていった。さすがに昼時に差し掛かり、街はまた猛烈な暑さに包まれるようになっていた。

 私はそろそろ次の試験がある広島へ向かうべく、最後に列車で関門海峡を越えることにした。門司港駅から工場の合間を進み、本州側の海岸もやはりいかつい工業地帯になっているのを建物の間からちらちらと垣間見ながら門司駅に出て、私は関門トンネルを渡る列車に乗り換えた。列車は門司駅を発車してすぐに地下へもぐり、そしてわずか数分であっけなく本州へ顔を出した。列車は海沿いを行くわけではないから、本州に渡ったことを実感できたのは、JR西日本の管轄に移った下関駅で駅の掲示類の趣が変わったのを確かめたときだったという、今日試した越境の方法の中では最もポイントの低いものだったのはまあ、仕方のないところかもしれないが。さっきの唐戸も賑やかだったが、下関の駅の周りは賑やかさがもっと強く感じられる。大衆食堂も多くてくいっぱぐれることはない。食堂のカウンターにはすでに出来上がった惣菜が大量に並べられ、客はほしいものを指差せばすぐに食べられるようになっている。私にとってはこのようなスタイルの定食屋ははじめての経験だった。


 午後は広島へ向け、普通列車でひたすら東へ進んだ。山陽本線は地図上では海の近くを走っているように見えるけれど、下関からしばらくは海沿いに出ることもなく、山間のわずかな家並みや、山並みに囲まれて広がる田畑の間を進んでいく。海は見えないけれど、海に向かって続いているであろう田んぼは、山を背にしているのとは一味違い、広々と開放的に見える。長府の明るい工業地帯や、線路を海側に分ける小野田、宇部と、所々車窓は若干の変化を見せるけれど、本線が進むのはあくまで深い緑の中、ときどき寄り添う厚東川などの大きな川は車窓に若干の涼しさを加える。

 高架に登る防府付近では、平野に家がびっしりと詰まってそれなりに都会であるようにも見えるが、ほんの数分走ればまた田舎道に戻ってしまう。やがて、列車は唐突に富海の海岸へと踊り出た。駅こそ無人駅ではあるが、青い海を擁する海水浴場は多くの客が集まり大盛況であるように見受けられる。

 徳山から岩徳線と分かれて海沿いをさらに進み、下松や光の辺りを進めば、工業地帯の合間に松並木の美しい海岸も見え隠れするようになり、まだまだ山間の田んぼの風景がメインではあるけれども、柳井辺りでは対岸と橋で結ばれる大きな島をいくつも浮かべる海の間際の風景となった。ついさっきまで幅を利かせていた工場も大畠の辺りではあまり見られず、ようやく素直に楽しめる海に出会えた気がした。南岩国の駅前には唐突に、広大なハス畑が広がった。湿地に真ん丸い葉がたくさん浮かび、その間から飛び出すような細い軸の先に鮮やかな花がつくさまは、あまり目にしない光景だけに新鮮さを感じさせてくれた。岩国に近づくにつれて車窓は建物ばかりになるけれど、建物の隙間を埋める緑地が、ここでは単なる田畑ではなく一面のハス畑なのである。

宮島の鹿 岩国でさらに東へ進む列車に乗り継いでまもなくすれば、海岸に点在する「かき」の文字が広島県へ入ったことを実感させてくれる。列車は瀬戸内海に沿って進むようになり、車窓にはすぐ近くに大きな宮島が浮かぶ。もはや夕暮れが近づきつつある時間であったが、青春18きっぷで宮島航路にも乗れるので、私は厳島神社だけ寄り道してみることにした。宮島口駅から商店街を通り抜けて桟橋に回り、さっきの関門海峡に比べれば似たような距離なのにだいぶゆっくりと進む航路で、夕刻に差し掛かってだいぶ涼しさを感じさせてくれるようになった風に当たっていれば、程なく大鳥居が目印の宮島へと着く。何頭もの鹿に出会いながら、常に海沿いを通る参道を歩けば、船からも見えた大鳥居はより間近になって、干潟の上に堂々と建つ。私は入場料を払って厳島神社の回廊へ入った。今日のところは海に浮かぶ回廊を想像しながら、干潮でなんでもないような感じのしてしまう回廊を回るのみとなったが、夕暮れ近い深緑の山肌の麓の、大きな神社の境内と考えれば、心地よい風に吹かれながらの散歩は、ひたすら移動するばかりの旅の中でのちょっとした楽しい休憩となったのだった。

 ここまでくれば広島市はもうあとわずかであった。宿へは西広島から路面電車に乗り換えていく方法もあったので、私は乗り換えのついでにお好み焼きを夕食にいただきつつ、すっかり日が落ちて暗くなった街中を、宿に向かったのだった。


平和公園 翌日は試験で一日中拘束されることになった。教職にせよ専門にせよほぼすべての問題が論述形式という癖のある筆記試験を江波にある会場で午前中に、そして午後は昨日の関門海峡よりよほど広く見える河口付近の川をいくつか渡らされてかなり距離のある別の会場へ移り、プレゼン込みのこれまた癖のある集団面接。そして帰り道の土砂降りは、慣れないことばかりが続いて疲れた体に追い討ちをかける。じっとしている分には暑くないということだけが救いだったが、大変な試験だったという印象だけが残る結果となった。


 熱帯夜から解放された雨上がりの快い翌日早朝、私は次の試験のある高知へ向かうべく、横川駅から再び普通列車の旅を開始した。広島駅を通る列車は当然のように朝ラッシュの最中であったが、一駅進んだ広島駅で当然のように解消してしまう。ようやく落ち着いて眺められるようになった車窓にはしばらく、そのまま市街地が続く。左手の後方に控える山並みには低く雲がかかる。そんな山並みが次第にたくさん現れるようになり、海田市を過ぎると列車は完全に山間の道を進むようになった。山の端から射す強い陽射しは雲に覆われる山を幻想的な絵に仕立て上げる。やがて深緑の高い丘に囲まれるように細く急激な流れの川が列車に寄り添うようになり、瀬野・八本松間のいわゆるセノハチと呼ばれる峠越えの区間へと差し掛かれば、列車は深緑の山肌にへばりついて、山の形をなぞるようにカーブを繰り返すようになっていく。まだまだ雲も厚く、山道とは本来こんなものなのだろうかと考えさせられるほどの、陰鬱な風景が続いていく。そんな山並みをようやく抜けた八本松のなんでもない市街地が、妙に明るくも見えてくる。列車はその後も、険しく陰鬱な山道の風景と緑色の田んぼの風景を交互に車窓に映しながら、ひたすら東進を続けていった。山陽線というのは意外に険しい道が続いていく路線であるらしい。

 私は快速列車サンライナーに乗り継ぐため、いったん三原駅で下車した。雨が降っていて外に出るのはためらわれたが、駅舎の北口は三原城天守台跡入り口に直結している。そして高架下の広場は石垣とお濠に面している。つまり、線路が城の本丸をぶち抜いて建設されたのだという。新幹線も止まる駅の南側はデパートなどもあって充分に近代的な建物であるだけに、なんとも不思議なつくりである。ここもぜひ晴れたときに再訪してみたい、と、たまたま降りただけの駅に対して私は強く感じることになった。

 三原駅から再び東進を始めると、海側には大きな工場が立ち並ぶが、山側には古そうな建物がたくさん立ち並び、そんな昔ながらの素朴な雰囲気はやがて海側にも現れるようになって、列車はやがて海の間際を走るようになっていった。目の前の瀬戸内海にはたくさんの島が浮かび、再び現れた太陽に照らされ、輝きを持ち始めている。明るさを取り戻した車窓いっぱいに広がる多島海には、しまなみ海道を構成すると思われる大きな橋もかかり、列車は尾道の市街地へと進んでいく。すぐそばに見える海をブロックするように工場や高い建物を中心とする街並みが広がる一方で、山側には古く小さい建物が、近くの山肌にまでびっしりとへばりつく。大きくいかつい港には、古めかしい味わいのある商店街が接し、そしてわずかな海を隔てれば、深緑の瀬戸内の島が堂々と存在を示す。山並みに囲まれてさほど広くない範囲に街並みの味わいが凝縮されたような風景が、しばらく続いていった。

 東尾道を過ぎればまた田んぼの風景の中へ列車は戻っていったが、尾道に似た古い建物を多く含む松永や、堂々と存在する福山城の周りに、密度が小さい割にかなり広範囲に広がる福山の市街地、そして岡山県に入ればほっとさせられる田んぼの緑色にまぎれるように、古くて味わいのありそうな笠岡の市街地や、周囲には不釣合いな大きな駅を擁する宗教関係の金光と、一つ一つじっくりと楽しんでみたい市街がより頻繁に現れるようになり、そして列車はじわりじわりと倉敷へと近づいていった。構内の線路がたくさんあるせいで、列車からは倉敷の街並みはかなり遠巻きにしか眺められないのだけれど、街並みそのものは密度が低いながら確実に、時折田んぼを織り交ぜながらも岡山に向かって続いているようだった。そしていつしか、列車は広い広い岡山駅の構内へと飲み込まれていったのだった。

 岡山からは進行方向を南に変え、私は瀬戸大橋線の列車で四国島への上陸を目指した。列車が進むにつれて岡山から続く街並みの密度はだんだんと薄くなって、車窓には田んぼやハス畑が次第に目立つようになってくる。早島では畳表が生産されているそうだから、個の辺りの田んぼはもしかしたらい草畑なのかもしれない。建物の姿は断続的ながら比較的長く続き、完全に田園といってよいくらいまでになったのは茶屋町を過ぎてからだった。それとともに列車はトンネルに入ることも多くなり、トンネルを抜けた山並みからは児島の港町の様子が遠巻きに映るようにもなってきた。

 列車はやがて、海沿いの児島駅へ到着する。列車の左手にはすでに海が広がり、右手は本州側の山並みに建物がたくさんへばりついて、町が広範囲に広がっていることを示す。海に浮かぶ島々は霞がかかって青白く、しかしここまでの道に比べれば格段に明るい風景が広がった。そしてトンネルを一つ越えれば、列車は明るい瀬戸内の海の上へと踊り出た。明るい海の上を進みながらも、下のほうを覗き込めば橋が足を架ける島々の様子もよく見渡すことができる。斜面には段々畑があり、素朴な住宅地があり、港があって小さな漁船も浮かび、窓を閉じていても潮の香りが漂ってきそうな風景が車窓に展開する。島々の間を悠々と航行している大きな船も、しかし高いところから見下ろせば、島の大きさに比べれば小さな存在でしかない。やがて石油タンクを抱える島を通り越して、列車は何事もなく四国島へと入っていった。青く輝く瀬戸内に面する四国の平野には、背の低い小さな住宅がびっしりと敷き詰められていた。

 私は土讃線の列車に乗り換えるため坂出で列車を降りた。坂出の街は古い瓦屋根の家が敷き詰められていて、歩くのが楽しそうな雰囲気が伝わってきたが、駅前は地下駐車場の建設中で、ごみごみとした感が否めない。琴平に向かう列車に乗り込めば、右手の車窓にはいかつい工場、瀬戸大橋という人工建造物が敷き詰められるが、左手には平野の中に孤立する山がいくつか堂々とそびえ、その間に住宅街が形成される。しばらくは工業地帯に伴う街並みが続き、案外大きな街だという印象を受けたが、それでも多度津に近づくにつれ、車窓には田んぼの姿も目立つようになってきた。ホーム上の待合室と讃岐うどんの店が一緒になっていて座ってうどんを食べることができるようになっている多度津駅から、列車は海を離れて土讃線へと入っていく。とんがった山に挟まれるような、あくまで田んぼが主体ののどかな平野を少しばかり進めば、列車はすぐに琴平駅に到着した。短い時間ではあったが、せっかくだからと私は駅構内で讃岐うどんをすすった。

 琴平から先は線路に架線もなくなり、列車の編成も単行となって、広々とした田園風景の中でなおいっそう小さな存在となっていく。車窓に広がるのどかな田園の中には、多島海の名残のように孤立した丘が点在する。止まる駅も至って小さい。そして高い所に登っている列車の車窓には、きわめて広い緑のじゅうたんが映し出されるようになっていく。徳島県が近づくにつれ、山並みはだんだんと線路に近づき、列車は緑の丘陵に沿ったり挟まれたりするようになっていく。讃岐財田を過ぎてしばらく行くと、よりそう山はより高く、その間には谷が深く切れ込んで、車窓は渓谷のような様相を呈してきた。川こそ見えないものの、険しさは増していく一方で、入ったとたんひんやりとすることからだいぶ長いと予想できるトンネルへと列車は導かれていく。予想通り延々と続くトンネルをようやく抜け、冷された車体にたっぷりと水滴をまとったまま、列車は険しい谷間に存在するスイッチバックの坪尻駅に着いた。線路と駅以外の建造物は見当たらず、誰が使うのかよくわからない駅の周りは高い丘にすべての方向をふさがれてしまっている。列車はトンネルに出たり入ったりを繰り返しながら、徐々に高度を下げていき、次第に谷の幅も広くなって、その中に街も形成されるようになってくる。箸蔵を過ぎ、川沿いに延びるように広がる街並みを目指しつつ、列車は緑豊かな丘陵の中、高度を下げていく。そして川の高さまで降りて川を渡ればまた、車窓には田んぼがメインののどかな風景が広がるのだった。

 琴平のうどんに続き、炭水化物の取りすぎかもと思いつつも駅そばとしてはそば粉の含有率の高い祖谷そばを私は阿波池田駅で乗り継ぎの合間にいただいた。阿波池田はそれなりに賑やかそうな雰囲気を持つ市街だが、建物の合間からは街を囲む緑の丘が高くそびえ、のどかな雰囲気を捨てきれない様子が伺い知れる。私は阿波池田から引き続き土讃線を南下した。列車は太い川の流れに沿って進むようになった。斜面に囲まれた中ではあるが、対岸までの距離は遠いので、さほどせせこましい感じはしない。しかしやはり進んでいくにつれて、川幅は次第に狭く、山肌の急に切り立つ険しい風景へと変わっていく。祖谷口を過ぎ、突然振り出したにわか雨は、険しい秘境的な様相を見せ始めた車窓の雰囲気をさらに盛り上げていく。やがて、列車はごつごつとした河原が続く小歩危、そして大歩危へと進んでいく。トンネルや覆道が多くて、あまり写真に撮れるほどスリリングな景観は見られず、列車から眺めるよりも実際に見に行った方がすばらしいのかもしれないと思ったが、それでも時々はダイナミックな風景が車窓いっぱいに広がっていく。阿波池田から大量に乗り込んでいた高校生たちも県境を越えることはないようで、大歩危駅を過ぎた車内にはまた静けさが戻ってきた。

 列車は長いトンネルを越え、ついに高知県内へと入っていくが、車窓には引き続き、険しい谷間の風景が続いていく。水量も多い上にゆったりとして、山肌の緑をきれいに映しこむようになり、険しい中にも落ち着きを取り戻したような感じも受けたが、それも束の間だったようで、川岸には険しい岩盤が姿を見せ、また少なくなった水は激しくしぶきを上げていく。水底までもが透き通り、きれいな渓谷の風景だ。この路線には10年ほど前にも特急列車で乗ったことがあるのだが、普通列車でのんびりと走る今回、私は車窓の様子をじっくりと楽しむことができた気がする。川に架かる大きな橋の上にある本当の橋上駅の土佐北川駅も、列車交換の間にじっくりと観察することができた。繁藤を過ぎ、またトンネルが多くなって、合間からは山間に深く切れ込むように谷が延びていく様子が垣間見られ、県境を越えてからの方がよほど険しい旅路になっていることを感じていたら、駄目押しとばかりに列車は新改のスイッチバックを越えていく。そんな、険しかった道もやがて少しずつ穏やかに開けるようになり、再び田んぼが広がるようになって、やがて列車は唐突に土佐山田の市街へとたどり着いたのだった。

 列車の待ち時間を利用し、私は日和雨の山田の街へ出た。さほど広くない道に沿って素朴な商店街が続くが、そんな中に時々、古めかしい低い瓦屋根を持つ酒屋なども。土蔵の白壁に自動販売機が埋め込まれているというのもなかなか面白いものだ。街並みの末端を告げるように大きな病院が建ち、ホームだけの小さな山田西町駅もすぐ近くにあった。天気は不安定なままで、通り過ぎた大雨を強い陽射しが蒸発させ、蒸し暑さも感じられた街歩きだった。

はりまや橋 ここまで来れば、目的の高知まではあと少しである。山田西町から乗り込んだ列車は、ここまでの険しい山道とはうって変わって、田んぼが広々と広がって遠巻きに山並みに見守られるのどかな平坦な道を進むのみになった。途中地理を把握するために立ち寄った後免の古い街並みには近代的なスーパーも複数あったりして、それなりに便利そうであることを確認して再び列車に乗り込めば、あとは国道に並行して、田んぼの中ののどかな道から遠くの方に見えた、高い建物が密集する高知の市街へ向かって、周囲が少しずつ賑わいを増していく中をゆっくりと進んだのだった。

 結局、広島を発ってからちょうど10時間、ひたすら普通列車を乗り継いで私は高知駅に降り立つことができた。10年程前に来たことがあるはずの街で、駅前の雰囲気にも確かに見覚えがあったが、それでもなんだか初めて来た街で感じるような楽しさを私は感じていた。10年前は結局列車を乗り回していたばかりの旅で、実は街そのものをあまり見ていなかったりするので、試験のついでとはいえ比較的時間に余裕のある今回、この街でいろんなものをじっくりとみることができるのが、とても楽しみに感じられたのだった。


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