専任の職を得てから1年が経ち、日直の他部活の顧問も任されるようになったため、今年の夏は昨年までのような長旅には出られなさそうであったが、さすがにお盆くらいは休ませてもらえるらしく、私は1泊くらいならと、今年の夏も短いながら旅に出ることにした。
お盆の最繁忙期にあたり、指定席など取れるわけもなかったので東京駅から自由席に座ることに決め、私はまだ朝も早い、5時にもならないうちに自宅を出発した。昨日のようなさわやかな天気でいてほしかったのだけれど、あたりは気が滅入るようなしとしと雨だ。暑くないのはいいのだけれど、むしろ冷酷な雰囲気さえ感じられてしまう。乗り込んだ山手線もこんな早朝なのに空席は少なく、しかも大荷物を持っている人もたくさんいる。まさかこの人達もみんな、新幹線の自由席を狙っているのではあるまいかと思うと、私の気持ちは白みゆく空ほど明るくはなれなかった。
それでも東京駅に着いてみれば、新幹線の改札は5時半にしか開かないし、改札口に並ぶ列もさほど長いわけではなくて、ちょっと早く来すぎたかなといった感じであった。事実改札が開くと同時にホームに上がれば、私は乗車列の前の方を余裕で確保することができた。それでも列車の入線が近づくにつれて列は伸びていったし、入線した列車の空席も刻一刻と少なくなって、発車するまでには立席の客も出るほどになっていったから、東京まで出た甲斐はあったのだろう。しかし不運なことに、愛用のカメラがほんの少し衝撃を受けただけで動作をしなくなるというアクシデントにも見舞われてしまった。何とも幸先の悪いスタートとなってしまったわけである。
私は発車した新幹線に身を任せ、ほとんど寝てばかりのまったり旅を楽しんだ。東京で降っていた雨は北上すれば止んだが、相変わらず厚い雲が周囲を覆い続ける。しかしその暗い空のもとに広がる真っ平らな田圃は見事なまでに鮮やかな黄緑色を呈し、異様なまでに明るい風景を織りなしている。カメラが壊れていなければ写真に収めたくなるような、印象的な風景が車窓には続いていく。水沢江刺や北上の辺りでは、黄緑色の明るい田圃の間、深緑の立木に守られるような民家も点在し、決して単調な風景とはならない。そして田圃の背後には、水墨画のように灰色に煙る丘陵が折り重なりながら控える。
新花巻で私は新幹線から降り、その片隅にぽつりと存在する、改札外扱いの釜石線ホームへと向かった。狭いホームには、あらかじめ指定席を押さえておいてよかったと強く感じられるような、乗客が入りきれないほどにあふれる光景が展開する。快速はまゆり号は新花巻駅を発車すると、巨大な新幹線駅が場違いに思えるほどの、鮮やかな緑に囲まれるのどかな風景の中を行く。それは新幹線の中から見られたような真っ平らなものではなくなり、複雑に丘が折り重なるような、さらなるのどかさを誘う風景となっていく。途中の土沢という駅は木造の白い駅舎が美しく、今回は無理そうだけれどまた次の機会にじっくりと味わいに来る価値がありそうな感じだ。岩手軽便鉄道の起点駅で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルとなったなのだという。
列車が進むにつれ、周囲は次第に山深くなっていく。列車のすぐそばにまで深緑の丘陵が迫り、岩のごつごつとする川も列車に寄り添うようになっていく。少し前に比べても、このままどうなってしまうのだろうと思わされるまでに急激に深くなってきた山道だったが、トンネルを越えると宮守の田園風景へと戻っていく。暗い空のもと、深い空は陰鬱でしかないのに、明るい風景は私の気持ちをよく癒してくれる。高台を貫く線路からのぞまれる、谷間に広がる黄緑の田園はダイナミックなまでにすがすがしい。列車は引き続き、深緑の丘に囲まれながら、時々は現れる明るい田園の風景に癒されつつ、緑に満ちあふれる中を進んでいく。時には山道になったりもするけれど、すぐにのどかな風景が、計り知れない勢いで周囲を埋め尽くしていった。
私はこの旅最初の目的地として遠野を選び、はまゆり号から下車した。今日はここでレンタサイクルを借り受けて一日を過ごそうと考えたのである。さすがに見てみたいスポットは広範囲に散らばっているようで、私はいきなり迷ってしまった。とりあえず近くの大きなスーパーで使い捨てカメラも安く手に入れ、私は駅前に広がる市街を発ち、国道340号に沿って自転車を走らせた。河童の像も水路の端にひょっこり現れたりするさすらい地蔵のある市街をあとに、市街を離れ何やらかわいい碑も杜の中に建っていたりするキツネの関所の辺りまでくれば程なく、周囲は列車からも見えた緑一色の風景に埋め尽くされるようになっていく。たとえ慣れない自転車であろうと、爽快なまでに明るくのどかな風景に包まれながらのサイクリングはとても快いものだ。
遠くは深緑の丘陵に固められつつも、周りの明るい緑の田圃はどこまでも平らに広がっていく。緑色の中には少し深い緑の里芋や、淡い緑で大きな葉と太い茎が目印となるタバコ畑も少なくない。伝承園の辺りには人が集まって賑わっていたが、その近くの常堅寺までの道には、ホップという植物の畑も広がっていた。つる性の植物で、ちょうど淡い緑の球果が無数に実る頃合いだった。名前はよく聞く植物だがその実体にお目にかかる機会のない植物だけに興味深く、私にはとても貴重なものを見ることができたように感じられた。この遠野はホップの生産量が日本一ということらしい。
私はカッパ淵があるという常堅寺を訪れた。一見すると古めかしい大きなお堂を中心とする、趣こそあれどこにでもありそうな寺院のようであったが、中のお堂を守るのは、かわいらしいカッパ狛犬であった。曰く、いたずらして馬を淵に引きずり込もうとして失敗し、怒られて反省して母子の守り神となり、近くで火事が起こったときに頭の皿から水を出して消火したという功績が称えられているのだという。境内の奥には、鬱蒼とした雰囲気の林の中を、水路がゆったりと静かに流れていく所があり、カッパ淵と呼ばれているようだ。さすがに名所であるらしくて人も多いのだけれど、河童って奴はこういう所にひょっこりと現れてくるのかなあなどと想像のかき立てられる、のどかで癒される雰囲気の境内だ。
突如クマの目撃情報多数という市の放送まで流れ渡るお昼の遠野を、私はさらに自転車で駆けめぐった。常堅寺から「新奥の細道」という立て札に従って自転車を進めてみたら、私はぬかるみのダート道へと誘導されてしまった。緑に囲まれたのんびりとした田園で辺りに他の人の姿も疎ら、苦労しているのは自分だけなのではないだろうか、などという錯覚にも襲われてしまったわけである。そしてようやくダートを抜けたら今度はだらだらの登り坂が連続していく。振り返れば眼下には谷間にせせこましく広がる小さな田園がパノラマのように開けていたのだが、その風景をじっくり味わっていこうという気持ちの余裕も持てないほどの急坂が、まだまだ続いていく。
やがて、たかむろ水光園という所から発せられているらしい商売気が辺りに満ちるようになってきて、私はそれを避けるように自転車を進めていった。道はそここそが峠だったようで、ここからは一転下り坂となり、緑一色の風景の中、私はようやく気持ちよいサイクリングを楽しむことができるようになった気がした。そんな高台に、デンデラ野という所がある。その不思議な響きに釣られ、私はその高台に登ってみた。説明によればそこは、実は哀しいスポットだった。里の風習で60になった老人がここに集められたという。昔の老人ホームのような所と言えようか。日中は里に下りたというけれど、下りるべき里はここからはあまりに遠く、しわのような丘陵に囲まれるように、遠方にせせこましく広がっているのが確認されるのみなのだ。隔絶、という言葉が私には強く感じられてならなかった。
私は再び、だらだらと続く登り坂を進んだ。タバコなどの畑もあるが、この辺りには比較的人家の姿も周囲に目立つようだ。山口という集落であるらしいが、その奥まった所には、茅葺きの小さな小屋があって、水車がぐるぐると回転している。おそらく昔は、一日中脱穀のために働いていたのだろう。今日のところは別に何があるわけでもなく、どうやら単に回転しているだけのようだった。それでも丘陵と狭く広がる田圃をバックにして、この褐色の水車だけが唯一の活動する物体となっているこの風景は、何とも例えようもないのどかな雰囲気を周囲に与える。
ここからの道は下り坂になり、私は爽快な空気を感じながら自転車で駆け下りていくことができる。山崎という集落にあるコンセイサマというスポットが気になったので、私はそちらへ自転車を向かわせた。どうもこの遠野では見どころは高台にある傾向があるようで、私は再び坂道を登る羽目になってしまったのだが、コンセイサマへ向かう道筋にすでにそれらしき岩が、まさにチン座していたりするのだ。そんな道のやはり一番奥まった所に小さなお堂があって、1.5 mの立派なモノが祀られる。どうやら自然岩であるらしい。生命の象徴と単純に考えられている民間信仰らしく、この辺りここ以外にもこのようなものが点在しているのだそうだ。
私はまた、重力に任せて爽快に坂を下っていき、明るい田圃の風景の中、伝承館の所へと帰ってきた。今度は福泉寺の方へ向かい、新たな気分で自転車を走らせ始めることにした。際限なく広がるかのようにも見えるのどかな田園風景の中、福泉寺自体は何となく今無理に訪れなくてもいいような気がしてしまい、私は少し先にある馬の里という所を目指してさらに自転車を進めた。まただらだら坂を登る羽目になってしまったが、タバコの巨大な葉、そしてまた出会えたホップの畑が水田よりも目立つ坂を頑張って登っていくと、やがて斜面を切り開いたかのような牧草地となる馬の里という施設が現れた。
大胆に馬たちが放牧されているような状況では残念ながらなかったのだが、中では一つだけ厩舎が開放され、馬たちと身近に触れあうこともできるようになっていた。馬自体北海道などで近づいたことは何度もあったけれど、ここの馬もやはり、人が来たからといって特に反応を見せるわけでもなく、周囲の風景と同じように、のんびりと餌を食ったり、唇や鼻を鳴らしてみたり、あくまでもマイペースに時を過ごしている。
馬のいない放牧地は走路に囲まれ、レースでもできそうなのだが、今日のところはあくまで静かだ。その向こうには丘陵に囲まれて、静かに黄緑の田圃が横たわる。私は田園へ駈け下り、その田園に迫りくる丘陵の麓に沿うように自転車を進めた。いい加減疲れもたまり、時間も限られてきたので、大変そうな見どころは次回に送ることにせざるを得なかったが、どこまで行っても続くまったりとした雰囲気に圧倒されながらも、私は淡緑の丘の麓、黄緑の田圃の中を、頑張って走っていった。
そんな中でも、太郎淵という所は私にとって格好の休憩スポットであった。草木が豊かな水面へせり出す淵なのだが、ここに洗濯に来る女の腰をのぞき込むという、太郎という文字通りのエロガッパが、その彼女と仲良く暮らしているという伝説があるらしい。この淵の周囲が明るく整備されているのはエロガッパが悪さをしないようにしてあるのかなあなどと、想像を巡らせるのもまた楽しいものだ。もちろん周囲は丘陵と、この上なくのどかな田圃の風景に囲まれる。河童たちがひょっこり現れたりしてくれたら楽しいのになあなどと思いながら、私はしばし、このあまりにのどかな雰囲気の中に身を委ねたのだった。
まだまだこの遠野には見どころはたくさん残っていたし、のどかな風景に身を委ね続けるのも悪くはないなと思ったけれど、限られた旅の時間でそろそろ次へ進まなければならない頃合いになってしまい、私は素直に市街へ、そして自転車を借りた駅へと戻ることにした。今度この遠野に来るときはもう少し民話を勉強してきたいものだ。そうすればこのあまりにのどかな風景に、気分がもっとどっぷりと浸かることができるかも知れない。もしかしたら河童たちにも出会うことができるのかも知れない……。肌寒ささえ感じるようになった市街を後にする前に、私は売店で遠野物語の文庫本を買っていくことにした。
釜石線の列車に乗り込み、私は宿を取った釜石へと向かった。今日一日何とか天気はもってくれたのだが、列車が発車する頃にはとうとう、こちらにも東京の雨がやってきてしまった。周囲に広がる緑の田圃には、一駅ごとに丘陵が迫ってきて、しまいには深い谷間に接する、文句なしの山道へと変わっていった。列車は次第に、ものすごい険しい道へと進んでいく。陸中大橋という駅に着く直前、谷底のような低い所に線路が見え、こんな所に他へ分岐する線路などあっただろうかと考えるうちに列車は長いトンネルへ突入し、抜けて大橋駅へたどり着けば今度はすぐそばに迫る丘陵の上方に、さっき通り過ぎた線路が通っていたのだ。どうやら高度を下げるために、大きく迂回する必要がある所だったらしい。
そんな列車はむしろ、ガスに煙る谷間を行くようになった。田圃もないわけではないがごく狭いものしかなく、圧倒的に世界を支配するのは線路に迫りくる丘陵となる。空も次第に暗くなり、雨の降る谷間には、さっきまでいた遠野の明るい雰囲気はもはや感じられなくなっていた。それでも松倉まで進んでいくと、山間の雰囲気を保ちつつも、田圃の現れる領域に建物の姿が目立つようになっていった。丘陵は相変わらずすぐ裏に控えているけれど、釜石の市街が始まったらしいことが強く感じられる風景となった。
家並みは小佐野まで途切れることはなく、そして建物は大きくなってそのまま釜石まで続きそうな勢いだった。しかし目指しているのは海沿いの街のはずなのに、険しい山道の雰囲気が失われることはなかった。リアス式の地形の特徴を感じながら、私は夜の訪れつつある釜石へとたどり着いたのだった。
次の日、釜石の市街には残念ながらしとしとと雨が降りしきっていた。昨晩も夕食を求めて市街を彷徨いはしたが、明るくなった中再び歩いてみればやはり、すぐ近くにまで山並みが迫り、狭い範囲に細長くアーケード街が発達していることがよくわかる。その、街の周囲を固める山並みは、すぐ近くにあるはずなのにガスに煙るような天気だ。
私は靴を雨に濡らしながら、朝の街を彷徨った。気温も半袖では寒さを感じるほどだった。高台に薬師公園という所があり、登れば展望でも広がるかなと思ったのだが、その期待は裏切られる結果となった。しかし古い製鉄の歴史と、何度かの大津波、戦時中の艦砲射撃など幾多の災いを乗り越えてきたこの街の歴史の片鱗を伺わせる簡単な展示を目にし、静かな雰囲気の中、私は何だか荘厳なものを感じずにはいられなかった。
細長い市街に厚みはほとんどないが、長さは際限がない。しかし朝早すぎるのか天候のせいか日取りのせいか、シャッターはほとんど下ろされたままで、お盆休みを決め込む張り紙も街なかには目立つ。これらがすべて開けばそれなりの賑わいがありそうな感じがしたが、今日のところは至って静かである。街の中には至る所に、高台への道を示す津波避難路の看板が立つというのも、この街の哀しい特徴である。
海のすぐ近くではあるはずだったが、人の動線は巨大な魚市場の建物によって海と隔てられているので、私はなかなか海岸に出ることができなかった。浜町という所に来て海沿いの路地を入れば、魚市場の建物がひしめいていて、その向こうにようやく海岸らしいものが見えてきた。ごく小さな公園のスペースから、津波よけのドアつきコンクリート防潮堤をくぐると、コンクリートで固められた釜石の漁港が大きく目の前に広がった。リアス式海岸の一つの入り江を固めたのか、左右を灰色に煙る丘陵に固められた細長い港である。入港客歓迎という大きな文字が寂しく感じられてしまうほどのひとけのない漁港に、雨は静かに降り続き、対岸の遠くの方から白い観音様に見守られながら、カモメたちも静かに羽を休めている。盆でなければ、こんな広い魚市場を擁する漁港だし、活気があることは間違いないのだろうけれど、今日のところはこのしとしと雨の中、静かな漁港の雰囲気を独り占めにするのみとなった。
適当に市街を概観してすぐに次に行こうと私は考えていたのだが、この天気ではあまり派手に動き回ることはできなさそうだなと思ったので方針を変え、できるだけゆっくりと過ごすことにしようと私は心に決めた。開いていた喫茶店で遅めの朝食を取り、シャッターのわずかに開き始めた市街を、私はとりあえず駅に向かっていった。
私はとりあえず、職業上の興味もあって、鉄の歴史館という所を訪れることにした。行き方に自信が持てなくて贅沢にもタクシーに頼ってしまったのだが、上平田ニュータウン行きの路線バスに乗ればよかったらしい。駅前に大きく立ちはだかる新日鐵の工場の近辺は、市街というよりは工業地帯が道の両脇を固めるように広がったが、しばらく進むと厳つい港湾の姿も現れてきた。何のことはない、とりあえず海を見たかったならば最初からこっちのほうに来ていればよかったということらしい。やがて高台には、さっきの港からだいぶ遠くの方に見えていた白く巨大な観音様が現れ、鉄の歴史館はそれと対峙するように、隣の高台の上に建っていた。
鉄の歴史館に入館してみれば、館内ではこの釜石の製鉄の歴史、古代のたたらから江戸末期の洋式高炉の成功を経て爆発的に発展してきた釜石の歴史が、映像や史料で紹介される。そして2階、3階のラウンジからは、釜石湾も一望のもととなった。正面には後ろ向きに大観音が立ち、複雑な形の丘陵に囲まれる釜石湾のちょうど真ん中に当たる位置から、湾内に行き交う船を優しく見守る絵のような風景である。これで天気がよければ最高だったのだろうが、今日はただ優しい観音様も、じっと耐え忍ぶのみだ。雨は止む気配もなく、釜石湾は煙る一方で、さすがに盆休みでにぎわう遊覧船などがたまに行き交う以外はひっそりと静まり返る。館内からは後ろ向きになるので表情まではうかがえないけれど、観音様はなんだか寂しそうな後ろ姿を示す。
この地は鉄鉱石も、また森林から生み出される燃料や還元剤となる木炭も、さらに流れ込むいくつかの川によってもたらされる水車の動力も充分に得られることから、近代製鉄の父、大島高任によって目をつけられた所なのだという。実は昨日乗ってきた釜石線の険しかった道の辺りにも、鉱山や高炉があったらしい。駅前にある製鉄所については、ビアンヒーというドイツ人技師の調査に基づいて作られたものだが、立地的には実は失敗とされているのだそうだ。ホテルサンルートの奥、神社のある辺りに作ればどうかという高任の案があったが棄却されたのだと展示は教えてくれるが、その案の方が採用されていたらこの街の発展は、どのようになっていたのだろう。またその辺りを勉強して、ぜひきれいに晴れた日にまた釜石を訪れてみたいものだと、昨日遠野に対して思ったのと同じ感情を、また私は感じることとなったのだった。
鉄の歴史館の見学を終えた私は、来た方とは反対側の坂道を下り、さほど遠くなさそうだった隣の駅の平田(へいた)を目指した。道は下る一方なので歩きやすく、崖の上からは複雑に入り組んで島を浮かべる釜石湾と、平田に広がる、釜石ほど立派ではないが敷地はやたらと広い漁港、そしてやはり狭い範囲に建物のひしめき合う平田の集落が、カーブに差し掛かるごといろいろな角度から見下ろされ、天気はあまりよくはないけれど気分は決して悪くない散歩道となった。
平田はスーパーやコンビニも普通に存在する、それなりの規模のある集落だった。食事を取れる店は見つけられなかったが、国道から路地に入った所に広がる平田の街並みは、盆の静かな、どこまでも素朴な集落であるように私には感じられた。すぐ裏に控える丘陵の中腹には、避難所にもなっている舘山神社という小さな社があり、参道は杉林に入りつつさらに奥へ続いているらしい。鉄の博物館から見られたほどのダイナミックな展望があったわけではないけれど、気が向いてふらっと歩きに行った結果、昨日とはまた違う種類の、まったりとしたのどかな風景に出会えたことが、たとえまた昼飯抜きになってしまいそうであっても、私にはとてもうれしかった。
私は集落の傍らの築堤の上を通る線路に貼りつくような小さな平田駅から、釜石駅に戻るため三陸鉄道南リアス線の最後の一駅間だけに乗車した。列車はただひたすら長いトンネルを進むのみで、釜石駅にたどり着く直前に湾の眺望が一瞬開けたことだけがよいことであった。釜石駅前の、土産物屋などの集まるシーポートという施設はそれなりに賑わいを見せていたが、足を伸ばすことを考えると食事の時間は取れなさそうだった。
私は吉里吉里(きりきり)という不思議な響きを持つ駅を目指し、山田線の列車に乗り込んだ。直前に釜石に着いた快速はまゆりからの乗り継ぎも多く、車内はそれなりに混み合った状態となった。列車は釜石線と同じ方向に発進するが、すぐにそれとは別れて、あとはひたすら田んぼすら疎らにしか現れない山深い道を進むようになった。しばらくして両石駅が近づくと、ごつごつとした崖に囲まれるような海と、同じように崖に囲まれるような狭い範囲にたくさんの人工建造物の密集する市街が現れた。その後も寂しさを感じるほどの山奥と、各駅の周囲に広がる決して小さくは見えない集落とを交互に車窓に展開しつつ、列車は走っていく。駅の近くとそれ以外とでの激しいまでの雰囲気の落差も、リアス式の険しい地形のもたらすものということなのだろうか。
降り立った吉里吉里の集落もまた、私が想像していたよりも規模の大きなものであるように感じられた。思ったよりも広い範囲に家並みは連なるが、やはり天気のせいか盆のせいか、静かに静まりかえってしまい、素朴な集落の雰囲気を醸し出すばかりだ。少しばかり歩いていれば、海岸にもすぐ出ることができた。釜石と同じように防潮堤のドアの向うに、茶色の砂の敷き詰められた砂浜が横たわっていた。
この異常低温のもと当然客の姿は皆無で、周囲を深緑の険しい丘陵に囲まれる、美しいけれども寂しい海岸の風景を、私は独り占めにすることになった。天気さえ良ければ、と思うも、むしろ天気がよいと客でごった返してしまうだろうから、この天候は私にとって喜ぶべきなのかどうか迷うところである。そんなに遠くないはずの丘陵でさえガスに煙り、寂しい雰囲気に満ちている海岸であったが、港湾の周囲は公園として整備され、複雑な形の海岸線をいろいろな角度から見ることができる。その場その場にそれぞれなりのきれいさがあるのがうれしい。特に小久保海岸では、きれいな白茶色の砂と黒くごつごつした岩に、激しく打ち寄せる白波がはじける、文句なしの美しさを秘める風景が広がった。風は肌寒かったが、私はしばし、幻想的な絵画のような美しい海岸線の風景に独り、身を任せたのだった。
海岸から吉里吉里の集落を眺めれば、背後はやはり丘陵で固められる。それなりの規模のあるように見えた吉里吉里の集落も、実のところこの険しい地形に阻まれているために密度が高まっているのかなあという感じもする。周囲をがっちりと丘陵に囲まれている様からは、吉里吉里「国」を標榜したくなる気持ちもわからないではない気がする。私は吉里吉里国内を探訪しながら、ゆっくりと駅へ戻っていった。集落に連なる家並みの一つ一つは本当に普通の、取り立てて特徴のなさそうなものばかりだ。しかしその外縁は迫り来る丘陵に一部乗り上げていて、下から見上げれば斜面の中腹にまで家並みが続いているようにも見えてくる。道に迷うことを繰り返していたら、私は小学校の敷地に誘われてしまった。古風な木造瓦屋根の小学校で、校庭の縁からは吉里吉里の海がのぞまれる。のどかな集落の美しい学校で育つ子ども達は、さぞ幸せなのだろう。
こうして1泊2日のみの急拵えの旅をそれなりに楽しんだ私は、早くも家路に就くことにした。吉里吉里駅から列車に乗り込み釜石を目指せば列車からは、大槌の周囲の市街、鵜住居という響きの美しい駅名、両石の駅前には高台から海を見下ろせる公園と、もっともっと途中下車の旅を楽しめそうな気のする車窓がいくつも流れていった。
釜石から新花巻に向けて釜石線の列車に乗り継げば、進むにつれて釜石の街並みは少しずつ勢いを失い、次第にガスに煙る深い山並みに車窓は包まれるようになってきた。市街と山道との境界となる松倉の駅裏には墓地が広がる。この時期、供えられた花で実はきらびやかな雰囲気を呈する所だ。
そのまま列車は、深い森へと飲み込まれていく。谷の形に添ってぐねぐねと徐行していく所もあれば、陸中大橋ではその地形の険しさを改めて感じさせられる上空からの眺望が広がった。トンネルや森を抜ければ、大きいはずの樹木でさえ絨毯のようにしか見えなくなるほど、車窓はダイナミックな森林の起伏を見せつけてくる。そんなめちゃくちゃな地形と戦いつつも、列車は一生懸命自分の道を行く。険しい道を越えた上有住という駅の構内にはなにやら洞窟があるらしい。山道はまだまだ、険しさを保ち続ける。
平倉まで降りてきて、ようやく周囲には田圃も見られるようになってきた。そして驚いたことに、この辺りアスファルトの地面が全く濡れていないのだ。雰囲気どころか天候まで明確に区切ってしまうほどの恐るべき峠道が、同一の県内にあるということが、私には強い驚きであった。空は灰色だしガスも立ちこめたままだけれど、のどかさを返してくれた青々とした田圃の中の風景を、列車は心なしか軽快に飛ばしていくようになった。
列車は激しいまでにのどかな遠野の里へ戻り、あとはそんな黄緑色ののどかな風景の中を行くのみになった。しかしすでに夕暮れは訪れ、あたりの田圃は必死に明るく見せようとしてくれているかのような表情を見せる。空の雲はあろうことか所々に切れ間を生じ、一部はピンク色に染まりさえする。半日を雨の中で過ごした私の、ずぶぬれの傘と靴はいったい何だったのだろうと思ってしまうほどの天候の変わりようだ。そして周囲はみるみる間に暗くなっていき、宮守に着く頃にはもう周囲は夜の風情となった。集落の明かりの中には、街路の提灯も含まれている。冷夏ではあるけれど、何とか夏の風情を醸し出しているかのようだった。
やがて列車は夜になった新花巻に到着し、私はいよいよ帰郷するための新幹線へ乗り継ぐこととなった。昼食も取っていなかったので夕食の調達が気になるところであったが、新花巻駅の周囲の何もなさ加減はあきれるほどであった。唯一の駅前施設である農協が閉店してしまうともう、駅に引きこもるしかなくなってしまうのだ。その駅の中の食堂ももう、7時半なんて決して遅い時間ではないはずなのにすでに閉店し、食堂以外の構内の店もどんどん閉まっていくし、ホームに上がっても飲料の自販機すら見あたらないのである。ここまで何もないとかえってすがすがしさを感じてしまうほどの、新幹線の駅であった。やってきた新幹線も、盛岡始発のやまびこ号という情報だけから私には推測ができなかった、在来線サイズの狭いこまち号の編成であった。何とか夕食は車内販売の最後の一個、今回の旅とは縁もゆかりもない仙台の弁当を手に入れることができたのだが、今回のような旅では致し方のないことなのであろうか。こうしてあとは闇の中、停車駅ごとに混雑を呈してくる列車に身を任せ、私はひたすら家路をたどるのみとなったのだった。