伊勢志摩方面への旅から帰った数日後、私は再びムーンライトながらの乗客となった。本当なら2週間にわたる長旅でもしたい気分だったのだが、4月からの新しい職場から呼び出しを受けていたためいったん帰らざるを得なかったわけである。一週間前に比べればより春めいてきたということなのかあまり寒さを感じない真夜中であったが、車内の混雑度は一週間前に比べれば上がっているようだ。そして、天気も残念ながらあまりよくない。
今回は飛騨高山方面を攻めることにしたので、私は早朝の岐阜駅から高山本線の列車に乗り換えることにした。ワンマン列車ではあったが通勤時間に当たるのか乗客も多く、車窓には田園風景や渓谷の風景が現れるのにこの人たちはいったいどこまで通勤するのだろうと不思議に思ったりもする。しかしそんな雰囲気も、美濃太田で通勤客は一掃され、あとは観光地へ向かう列車の風情が強くなってきた。国道が並走するから建物も多いけれど反対側は田んぼだらけで、ときどきあらわれる川は山肌を映し、絵の具のように鮮やかな緑色を呈する。家並みが続けば、庭の梅の花はきれいに咲き誇る。そして一駅ごとに山並みは近づき、あらわれる家並みも古めかしくて重厚な雰囲気を帯びるようになってくる。
下麻生と上麻生の間では、日本最古の石博物館という文字の書かれた建物と、飛水峡というらしい険しい渓谷が車窓に現れれた。露呈する岩肌が作り出す荒々しい風景の美しさはよくあるものだと思うが、それが歴史のある地層であるということを併せて考えてみるのも、また趣のあるものだ。この辺りから、列車は本格的に山並みへ入っていく。ごつごつした川も常に車窓に寄り添い、時折長いトンネルも通っていく。そして、白川口のように渓谷沿いに現れる街には旅館も多く、観光地としての意味合いを強く感じるようにもなってきた。川沿いに開かれた斜面には、茶畑も見られるようになった。
私は飛騨金山駅に降り立った。美濃の国と飛騨の国の国境にあたり、ここからが飛騨路であるという定義らしい。肌寒さを感じる街から、飛騨川の支流の馬瀬川に沿うように深緑色の針葉樹の茂る道を延々と歩いていくと、横谷渓への入り口があった。ここから横谷川に沿ってさらに私は山奥へ向かって歩いてみた。オオサンショウウオの住むという渓谷には、透明できれいな水が時にはゆったり、時には静かにしぶきを上げて流れゆく。残念ながら野生のものに遭うことはできなかったが、途中で一匹だけ、飼育されているものに遭うことができた。本来は夜行性なのだそうで、遭えないのも無理はないところであろう。やがて道は徐々に高度を上げ、川面からもだいぶ高い所を歩くようになって、川面よりも森林を眺めることの方が多くなってしばらくすると、森の静寂を破るように、白い一筋の水が滝となって激しく流れ落ちていた。このような滝が、ここからさらに上流へさかのぼっていけば全部で4つあるのだという。その3つめまでは探し当てることができたが、列車のダイヤのこともあり、すべてを見ることはできなかった。のっけから次回への宿題を作ってしまう旅となってしまったようである。横谷渓の入り口まで引き返し、私はコミュニティーバスに便乗して駅に戻った。バスは行きに通らなかった市街の中心を行った。さほど広範囲には広がらないけれど、部分的には賑やかさも垣間見られる街並みである。そして、橋を渡るときの川の風景は、やはり美しいものだった。
下呂温泉を目指すべく、私は引き続き列車に乗り込んだ。列車は相変わらず飛騨川に沿っていく。角張った白茶色の岩盤の間にしぶきが上がるところもあるが、点在するダムのおかげで水量が多く、緑色の広い水面をゆったりと見せているところも多くある。そして、そんなのどかな風景が一転、大きな建物が立て続けに建ち並ぶようになり、さすがに著名な観光地だけのことはあるなと感じさせてくれる下呂の街並みへと列車は分け入っていく。
下呂の駅前にも大きな旅館はたくさん立ち並び、温泉街を横切る川もきれいに整備されていて、いかにもと言った感じの観光地の風景が展開したが、それでも平日な上に降り出した雨のため人通りは少なく、静かというよりもどことなく寂しい雰囲気も感じられる。温泉街は緩やかな斜面に広がって、斜面を流れ下る川が削る阿多野谷もしっかりと護岸されて整備された風景の中に溶け込んでいる。私は阿多野谷に沿って街中のゆるい坂道を登っていった。市街地から森林の中へさらに坂道を登っていくと、やがて合掌村という、県内から古い合掌造りと呼ばれる建物が移築されて集められたテーマパークが現れた。
しとしとと降り続く雨の中、私はしばらくこの合掌村に滞在した。大家族が住むことが前提となっているようで、合掌造りの建物はどれも大きく、稲の脱穀や蚕の飼育などのさまざまな農作業がおこなわれていた様子が再現される建物の内部に入れば、急角度の茅葺き屋根を支える柱の一本一本はすべて太く、黒光りした重厚な様子は外の柔和な日本庭園とは対照的な堂々とした存在感を、しっとりとした雰囲気の中に与えてくれる。
そのような建物が並ぶ中の異質な存在となっていたのが、市内に住んでいる人のコレクションを公開しているという狛犬博物館である。西洋、中国の獅子をルーツとし、沖縄のシーサーにも影響を与えたのだという神社の狛犬についての展示はそれなりに充実し、口を開いた「阿(ア)」と閉じた「吽(ウン)」で一セットとなり「阿」が雌で「吽」が雄となることが多いが元来はどちらも雄であるはずだなどという説明もある。実際にいろいろなところのいろいろな狛犬も展示されていて、所によって獅子の面影を強く残すのもいれば極めてかわいらしいものもあったりたのだが、確かに股間には立派なものがついていたりするという新たな発見もあって、これから神社を訪れて狛犬を観察するのが楽しくなりそうな展示であった。
合掌村の園地はふるさとの杜という簡単な遊園地に直結する。ゲロという語感かららしいのだが蛙にちなむ展示や、木材に関すること、当地の祭りなどを展示する小さなパビリオンが、森に覆われる斜面に散在する遊具に混じって配置され、斜面には下呂町内の滝や池などの名勝を模したミニチュアが作られている。雨でなければじっくり回りたいところだが、弱くなる気配のない雨の中ではとりあえず一周するだけが精一杯だった。阿多野谷の上流には野口雨情を記念する公園が川沿いにできるが、「雨情」の名前のよく似合う、しっとりとした雰囲気が雨の中辺りに漂うのみであった。
温泉街の中に舞い戻った私は、白鷺乃湯という共同浴場で一風呂浴びていくことにした。露天ではないが、窓からはごろごろとした河原石を抱える飛騨川が、それをまたいで温泉街をつなぐ真っ赤な大きな橋の下を悠々と流れていくのがよく眺められる。私は雨に濡れて冷え切った体をこの爽快な浴場でのんびりと温めることができた。共同浴場はここ以外にもいくつかあるといい、今度は雨でないときに、今回雨でゆっくりみられなかった所をまた見に来る時にでも訪れて見たいものだと私は強く感じたのだった。
体は温まったものの濡れてしまったままの鞄を背負いなおし、私は下呂駅に戻って宿のある高山に向かう列車に乗り込んだ。雨は降り続き、窓もくもりがちである。流れる川の中には源泉の存在を示す塔、そして旅館のベランダには露天風呂も見られる。今回私はこの街を充分楽しめたとは思わないのだが、温泉街の風情はそれなりに味わうことができたような気がする。そして、温まったほかほかの体での汽車旅というのもまたいいものだ。列車は引き続き飛騨川に沿って進んでいく。少しばかりうとうととしてしまったが、渚まで北上したころ、車窓の大きな変化に驚いて私ははっきりと覚醒した。山肌には実に、雪がまだ残っていたのである。いつのまにか車窓は雪国の様相を呈し、場所によってはかなりの大量の積雪である。川の流れもだいぶごつごつとしてきて、トンネルを越えるごと雪の量も多くなっていった。今日のこの雨でだいぶ融かされてしまうのだろうけれど、着いた高山の市街地にも、屋根や道路脇にはかなり多くの雪がまだ残っていたのだった。
本当は青春18きっぷが有効であるうちに飛騨古川まで足を伸ばそうと思っていたが、この雨の中これ以上動き回る気にもなれず、私は素直に宿に入った。夕食にこの辺りでよく名前を聞く朴葉(ほおば)味噌というものをいただいてみた。「この辺では朝食にいただくんですよ」なんて女将に言われてちょっと恥ずかしい感じだったのだが、要するにネギ味噌を朴の木の葉に乗せて焼いたのをご飯に乗せていただくというもの。ちょっと塩分が強すぎるのではないかしらというのが、私の率直な感想である。
翌日、東京は暖かくなるとテレビの天気予報は言うが、高山の天気は不安定で、そして何より、寒い。空には雲の切れ目もあるにはあるが、午後からまた雨の予報が出ている。今日は自転車を借りて高山の市街を回ってみることにした。駅前の街にも若干古めかしい建物は混じっているが、それが現れる頻度は街の中心を貫く宮川を境にぐっと上がっていき、淡い色の近代の建物がつくる路地とは完全に対照的に、背の低い古い建物ばかりが立ち並び黒っぽくなってしまった路地も現れるようになる。水量を増した宮川にはいろいろな形の赤い美しい橋が架かり、その近くには対照的なまでに黒くて古い味のある街並みが続く。細い道を挟むように古い建物が立ち並ぶ路地には、まるで数世紀前の世界が完全に残されているかのような雰囲気がある。昨日見た合掌造りの建物だって黒光りする建物ではあるが、同じ黒でも街の建物は細い格子が路地側にふんだんに使用され、都会の繊細な雰囲気を作り出している。
雨が降り出さないうちに行ってしまおうと、私は城山公園を目指した。街の中ではほぼ消滅してしまっている雪も、城山の中には所によってまだ大量に残り、大手門の辺りでは雪解け水がせせらぎとなって流れ、落ち葉もスポンジのようにたっぷりと水を含む。「高山」の名はここからきたのかと思わせるくらい、山頂の天守閣跡まではかなり急な坂が続く。もっとも、立ち木が多いので上に登っていったからといって展望がよくなるわけではなく、むしろ入り口付近の大手門近くの方が、宮川を中心に賑やかな街並みが平地いっぱいに広がっている様子がきれいに見渡せたりもするし、天守閣跡まで登ったからといっても建物が残っているわけでもない。天守閣跡に復元されているのは少しばかりの石垣である。少しだけ復元された遺構というのは、必要以上に盛者必衰の理を誇張し、不必要な寂しさを呼んでいるかのようである。
市街からは城山を挟んで裏側に当たる東山の界隈にも、細い路地に宮川の細い支流を挟んで古い味わいのある街並みが続いている。私は東山の寺院群を一周するように古い市街地を回り、飛騨八幡神社を訪れた。ここは観光客の集まるスポットになっているようで、雰囲気も古いままいきなり賑やかになり、すべて雄である狛犬たちも凛々しく立って境内を守る。境内には屋台会館という、高山祭りを練り歩く屋台のうち4つまでが交替に展示される施設がある。車輪に施される細かな細工が特徴的なものや、上に亀や鳳凰を乗せているもの、そしてからくり人形を乗せているものもあり、実際に動いているところは見られないものの、上映されているビデオからはきらびやかな雰囲気の中からくり人形が跳ね回る様子も伝わる。そして資料室には、車輪を傷つけずに屋台を回転させる工夫として、平行な車輪に直交するように隠れ車輪が仕込まれているということも紹介される。どの屋台も商人や匠たちが気合を入れて作り出すきらびやかさを持ち、いつの日か賑やかな祭りの中、あのからくり人形がブランコを渡っていくのを実際に見てみたいものだと思わされた。
再び古い街並みに戻ればまた雨になり、街の雰囲気はいっそうしっとりとしたものになっていった。飛騨そばや、一本単位で立ち売りされる飛騨牛の串焼き、大判せんべいなどを立て続けに食べながら街中を行けば、多少の雨では賑わいの衰えることのない黒い街並みには醤油やお香の匂いがほのかに漂い、土産物のさるぼぼの鮮やかな朱色が街並みに彩りを添える。そんな、いろいろ見て歩くのが楽しい街並みを通り過ぎ、私は高山陣屋を訪れた。要はここが天領になっていた頃から役場として使われていた建物で、ここが天領となった引き換えに高山城は廃城されて現存しないのだという。たくさんの部屋やお白洲までもがつながっていたりする古い建物や、米俵が置かれる様子が再現される蔵には高山の歴史も紹介されていている。そして、この建物では現に映画の撮影がされている途中らしく、機材は邪魔くさいけれどときどき通りかかる俳優さんの江戸期の武士の格好は、昔の高山の雰囲気をそれなりに感じさせてくれる。そして、何より印象的なのは、お白洲のある建物の底冷えのする冷たさだった。この寒さも、昔から変わらずに続いているのだろうか。
午後になり、私は飛騨古川に向かう列車に乗り込んだ。車窓にはしばらく高山の家並みが続くが、やがて薄く雪をかぶるか、あるいはたっぷりとぬかるんだ田んぼばかりが続くようになっていく。飛騨古川の見どころは、回るだけなら駅周辺にわずかな時間に見られる程度にまとまっている、高山に比べればだいぶ小ぢんまりしたものになっている。それでも、黒かった高山の街並みとは対照的に、白壁土蔵が細い水路に沿って立ち並ぶ様子はわずかな時間でも充分に私に衝撃を与えてくれる。水路の水は大雨のせいで泥水になっているのだけれど、立ち並ぶ白い建物は街並みに明るい雰囲気をかもし出している。もちろん白壁土蔵の通りだけでなく普通の家並みが続く路地もあり、白壁の通りとは対照的に落ち着いた雰囲気がある。一つ一つの建物は高山の街並みと同じように、細い木のめぐらされた古めかしいものであるが、しかし人通りはそちらほど多くはなく、あくまで静かな街並みとなる。街の外縁には大きな川も流れる。水量が多く透き通っていないのも、昨日からの大雨のせいだろうか。街並みに戻れば、ここも高山と同じように祭りの街であるということを示すかのように屋台をしまうための背の高い蔵が古い建物に混じり、また黒い店舗と白い土蔵が隣りあって建っていたりする造り酒屋が多くあって、飛騨古川の高山とは一味違う古めかしさの源が、この造り酒屋にあるのかもしれないと感じさせられた。
その後、私は再び高山の市街に戻り、今日の旅の締めくくりとして再び古い街並みを歩くことにした。そこいらじゅうで立ち売りされるみたらし団子を食ったりもできたし、黒い木が落ち着いた雰囲気を作り出す古い和風建築の中で日本間のひな飾りを見ながらコーヒーを飲んだりというのも、多少奇妙な感じもしないでもないがなかなか乙なものである。そんな古い建物群の中には土産物屋として使われているものもたくさんあり、そこで売られている土産物の種類もとても多い。漬物、とりわけ赤かぶらだけでもたくさんの種類があり、その他にも飛騨牛、そばやラーメン、せんべい、和紙、ちりめん、染物、朴葉味噌、さるぼぼ、地酒……。落ち着いた雰囲気の黒い路地を土産物を探しながらぐるぐると何周も、楽しく歩くことのできる、機会があればまたぜひ訪れてみたいと思うことができる高山の街並みであった。
翌日、私は高山を発ち、寄り道をしながらの帰路に着いた。天気はまだ回復せず、美濃太田方面の列車に乗って車窓を見れば、傍に控える山の低い所にまで雲塊が下り、高い所の木々がうっすらと雪をまとっていて、昨晩予報どおり雪が混じったのであろうことを想像させられる。そんな、まだまだ冬の気配が残る高山の風景も、飛騨一ノ宮と久々野の間の、高山を日本海性の気候たらしめる峠を越えてしまえば、山に残る雪は極端に少なくなっていき、そして雪の全く残らない下呂まで下ってしまえば、空も晴れ上がって太陽がまぶしく感じられるまでになっていった。
飛騨の国から美濃の国へと戻っていくと、列車はやがて往路で気にかかった飛水峡の領域へと入っていく。飛騨川は急流となって山肌を見事なまでに荒々しく削り取った渓谷は列車からでもよく見られるが、往路の列車から見えた「日本最古の石博物館」というのも気にかかっていたので、私は上麻生駅で列車を降り、駅前の小さな街並みから七宗(ひちそう)町の小道へと歩き進んでいった。
飛騨川にかかる七宗橋からは深緑色の山間の谷底に形成された荒々しい岩の間を縫って流れていく川の様子が一望のもとになるきれいな風景も見ることができる。そんな荒々しい渓谷に沿って延びる高台の道に作られ、やはり見事な風景を眺めることのできる道の駅に隣接するように、博物館は建つ。
博物館の展示は、要するにこの辺りで見られる上麻生礫岩の中に含まれる花崗片麻岩の年代を調べてみたら先カンブリア期の20億年前くらいのものだったということに由来するようである。礫岩の実物も飾られているが、問題の花崗片麻岩は大きな礫岩の中のごく一部分を占めているに過ぎず、そんな重要な意味のあるものがこの中に紛れているということによく気づくことができたなあと私は感心した。ポットホールを見に行く時間はなかったけれど、七宗町のマスコットにもなっている「レッキーくん」に地球の歴史をわかりやすく教えてもらい、改めて外に出て荒々しい飛水峡の風景を見てみれば、単に美しいというだけでなくこの複雑な形の岩畳すべてにこの地球が刻んできた時が年輪のように刻み込まれているのかなあという不思議な感覚でいっぱいになるのみだった。陽射しは暖かく、もはや高山のような空気の冷たさは一切感じられなくなっていた。
引き続き美濃太田に向かう列車には、さっきとうって変わって、下呂から乗ったとしか考えられないお年寄りの団体で混雑していた。飛水峡の領域を越え、下麻生も過ぎてしまえば、飛騨川を取り囲んでいた山並みもだいぶ列車から離れていき、車窓も田畑や家並みに支配されるようになっていった。山道から平野の道へと回帰するにつれ、飛騨川も文句のない大河へと変わっていった。美濃太田から乗り換えた岐阜行きの列車は同じ両数で小型の車両になってしまい、さらに混雑度を増したまま、もはや山岳路線の面影の全くない住宅街の中、私は岐阜まで連れてこられたのだった。岐阜のステーションデパートには県内各地の土産物がいろいろ売られていて、食堂のメニューにも朴葉味噌とか旅先でよく聞いたメニューが若干高い値で出されていたりもする。現地で買ったり食ったりしたほうが楽しいのにな、と私は感じながら眺めていた。
時間的にはまだ午後にちょっと差し掛かった程度、あとは東海道線を上っていけば日付が変わらないうちに帰宅することも可能ではあったが、今晩みたいテレビ番組があるというだけの理由で、私は途中でもう一泊していくことにしていた。混雑する昼間の東海道線にはもはや旅情のかけらもないのだけれど、愛知県に入って名古屋を過ぎ、安城も過ぎてしまえば、下草の生えて緑色のじゅうたんが形成されつつある田んぼの風景にも再び出会うことができるようになってくる。中には菜の花が咲き誇るところもあったりして、季節の巡りの遅い飛騨路に比べれば全般的にカラフルな車窓が続いていく。空も抜けるように青く美しい。
途中宿泊地として選んだ蒲郡で私は列車を降りた。蒲郡駅の南口から出れば海はすぐ近くにあるが、人工的に固められた感じが続く。北口の方が賑やかなのか、南口はどうも静かで、埋立中と見られる海岸には何の生気もない。しかしそんな海のそばに広がる街並みは決して小さくはない。少しばかり歩けば、竹島園地と呼ばれる公園に入っていく。すっかり晴れ上がった空に照らされてきらきら光る三河湾の海辺には遠くからでも橋で結ばれた小さな緑の竹島を見ることができるが、その橋の袂に整備されたフェニックス並木の園地には鳩や鴎がたくさん群れていて、観光客の餌付けに積極的に応じて群れごと大移動したり、小さな波が寄せるごとにそれをよけようとするかのように小さく飛び上がったりするほほえましい光景が広がっている。
そんな海鳥たちとの触れあいを楽しめる海岸をあとに、私は長い橋を渡って沖合いの竹島へ向かった。橋の上には強い風が吹いていたが、竹島に着いて島影に入れば、風もそう強くは感じられなくなった。切り立った島ではあるが、その外周には無理やり通されたような遊歩道があり、海と崖に挟まれたような細い道の途中には、せり出した広葉樹のおかげで頭をかがめなければ進めないところや、中には海岸の岩場を伝わらなければならないところもあったりする。そんな大変な遊歩道を回っていけば、三河湾の広く青い海がいろいろな角度から見られ、対岸の蒲郡の街とそれを取り囲む山並み、遠くに知多半島、近くに大島、遠くに伊良湖岬、近くに三谷温泉と、三河湾を取り囲む陸地が次々に視界に飛び込んでくる。島を覆う森は、対岸のクロマツとは全く違う、温暖な気候を反映した照葉広葉樹林であって、学術的にも珍しいところだという。そんな森に覆われる島の上は神社の境内となり、鬱蒼と茂る広葉樹林の中の厳かな神社は、工業地帯やいかつい港がすぐ近くにあるということを忘れそうになってしまうほどの静けさだった。
竹島園地に戻りベンチに腰掛ければ、フェニックスの並木越しにはリゾート地でのんびりとする人々の背景に緑の竹島が重なって見えてくる。目の前の三河湾は太陽の光で輝きながら静かに波を立て、海辺に遊ぶ鴎たちはその波をよけるようにジャンプを繰り返す。近くに大きな船が見えてきても、辺りにはあくまで、小さき者達ののんびりとした時間が流れていくのみ。カップルが多いのも、わかるような気がする。
私は至って普通の街並みの中を三河三谷駅まで歩いた。意外と古めの建物や蔵が街中に多く溶け込む三谷の街から列車に乗り、余っていた時間で私は蒲郡を通り越し反対側の三河塩津駅へ降り立った。駅前を歩いてみてもなんと言うことはない、郊外型の大型の店舗が立ち並ぶ普通の街並みである。ただ一つ、競艇場が堂々とそびえていることの他は。しかしその競艇場は駅の近くにでんと居座り、巨大な存在感を街全体にもたらしている。駐車場のスペースがあるおかげで街全体がだだっ広い雰囲気をかもし出すのだが、今日はレースはないので至ってひっそりとしている。言い換えれば、どんなに巨大な施設でもレースがないというただそれだけのことで、何の生気も感じられなくなってしまうということ……私は特に何をすることもなく、蒲郡の市街に戻った。宿は駅の北側であった。いわば荒涼とした感じの強い南側に比べれば対照的に、平凡ではあるがそれなりに商店の並ぶ街並みが形成されていた。私は昨日までと違って暖房の必要がないことに感動しながら、この街での夜をやり過ごしたのだった、
一夜明け、私は再び家路を歩み始めた。朝の通勤時間帯であったが、ラッシュは東を向いているらしく、西向きの東海道線は至ってすいている。三河三谷を過ぎてトンネルを抜ければ、列車は三河湾のすぐそばを走るようになった。まだ朝もやに煙っている時間、車窓に映るあらゆる物体は幻想的なシルエット状になる。山側の車窓も、色とりどりの田畑や遠くを囲む山並みがもやをまとっている。
私はいったん西小坂井駅に下車し、名鉄の伊奈駅をかすめつつ飯田線の小坂井駅へ向かって歩いてみることにした。住宅街の道沿いにはみかんがたわわに実る古い家がときどき建つが、広い道の舗装は古く、案外空き地も目立っている。そんな中にありながら伊奈駅は巨大な橋上駅であるし、その前に建つ中学校にもいかにも歴史と金が流れていそうな感じだ。ここから小坂井駅に向かう道は、県道を通っている分には大きな店もあってそれなりに賑わいが成立するけれども、駅へ向かおうと路地へ入ると、辺りは元通りの静かな住宅街へと変わっていく。そして、たどり着いた小坂井駅は、静けさの極致の無人駅。乗り込んだ列車も、素朴な住宅街の中を縫うように走るのみだった。
私は列車を豊川駅で降り、豊川稲荷に参拝していくことにした。JRの豊川駅と名鉄の豊川稲荷駅が共用する駅前広場では、銅製のきつねと子供たちが遊び、表参道でも所々陶器のきつねが参拝客の道案内をする。賑やかそうな表参道にたくさん並ぶ蕎麦屋はまだ朝早くて開店前であったが、そのメニューには必ずいなり寿司が含まれている。そんなきつねだらけの参道を抜けると、巨大な木造の黒い門があらわれた。ここからが稲荷神社の境内ということになる。
神社の境内で感じられるのは、とにかくスケールが大きいということである。あらゆる建物が巨大で、敷き詰められた白い玉砂利が作り出す清楚な雰囲気の中、彫刻の施された巨大な黒光りする瓦屋根の建物は、周囲にどっしりとした存在感を与えている。小さな社では稲荷といえば真っ赤な祠に向かって赤鳥居が連続するというイメージがあるのだけれど、ここではそんな真っ赤な雰囲気はなく、数個の巨大な白い石造りの鳥居が間隔を空けて立っていて、普通の稲荷神社とは何か違うものであるかのような印象も受けてしまう。しかしながら、その鳥居を守っているのが狛犬ならぬ「狛ぎつね」であることで、ここが間違いなく稲荷神社であるということがわかるのである。
建造物の大きさに加え、境内の敷地もまた、巨大なスケールを持っている。本殿の白い雰囲気の領域を表とすれば、奥の院などが静かに鎮座する杉林の中が裏ということになるのだろう。まだ朝早くて参拝客も少ない境内を、私は散歩のつもりでゆっくりと歩いてみた。奥の院を過ぎ、「霊狐塚」という場所へ向かう林の中の道を歩いていくと、道沿いにはたくさんの幟がはためき、その合間にほぼ等間隔で狛ぎつねが道を守るように立つ。そして一番奥までたどり着いた私を出迎えてくれたのは、小さな祠の周り一面を埋め尽くすほどの、本当にたくさんの小さな狐の像たちだった。小さな狐たち一つ一つがすべて赤い前掛けをしているから、おそらくお地蔵様に相当するものなのだろう。一つ一つをよく見てみれば、特に何ということのないものもあるけれど、中にはやたらと目つきの悪いものや、何か巻物のようなものを加えているものやらいくつかのパターンがあるようだった。この狭いスペースの中にこれだけたくさんの小さな狐が密集しているさまは、圧巻というよりも他にない。
私は豊川稲荷駅から名鉄の列車に乗り込んだ。名鉄豊川線の列車はしばらくは住宅地の中を進んでいくが、国府駅で名鉄の本線に合流すると、列車は国道1号線に沿い、建物の背も低く山並みもそう遠くなく、賑やかでなくはないのだけれどどことなく寂しさを感じる、いかにも旅をしているという感じがありありとしてくる。
そんな雰囲気の中にある名電赤坂という無人駅に私は降り立った。駅をあとにして国道を渡ればすぐに旧東海道赤坂宿である。割合細い道に古い建物がそれなりに立ち、古い街並みの雰囲気もあるにはあるのだけれど、すべての建物が古いというわけにもいかず、むしろ最近の建物の方が多いくらいだというのが、高山の街並みとの大きな違いである。しかし国道の方がいかにもがらんとした感じだったのに比べれば、いまだそれなりに活気を保つ旧道であると言えなくもない。陣屋や伝馬、見附などの史跡も跡が残るのみ、実物があるわけではないから、昔ながらの雰囲気を強く感じるということはまずなくて、むしろそれをいかに想像するかということに楽しみが見出される街歩きである。
私はそのまま、もしかしたら古いかもしれないといった程度の旧東海道を江戸の方向へ歩いていった。やがて道は赤坂宿の出口へ差し掛かった。見附の跡のすぐそばに細い水路のような川が流れ、これが現在も音羽町と豊川市の行政界となっている。ここから新たな一歩を踏み出せば、道は唐突に松並木に囲まれることになった。ここからが御油の松並木の始まりということになる。それまでの明るい道の雰囲気とはうって変わって、松の木が作り出す薄暗い雰囲気に包まれていく。真夏や真冬の気候の厳しいときならそれをやわらげる働きもするのだろう。交通量の決して少なくない道だけれども、それでもあまりうるささを感じずに静かに歩くことができる道であるように私は感じた。松並木の隙間からは、そう遠くない山並みまでのわずかな土地が段々畑となり、背の低い草もあれば菜の花やみかんなど色鮮やかな植物も植えられて、懐かしい雰囲気というかのどかさを強調してくれる。宿場町は街道沿いにしか開けないから、このようなのどかな風景も道から手の届きそうな近くに見られるというわけである。そして松並木の木陰道を通り抜ければ、また古い街並みが現れた。豊川市側のほうが気のせいか古い街並みの保存状態がよいように感じられる。また明るくなった細い道を私はのんびりと、失われつつある昔の雰囲気を何とか感じながら、名鉄の御油という無人駅まで歩いていった。
御油駅はひっきりなしに多数の優等列車が豊橋へ向かって通過していくが、実際に止まるのは30分おきの各駅停車のみ、しかも豊橋駅には入れず伊奈駅で止められてしまうというさんさんたるダイヤに逆らうように、私は豊橋駅へ向かい、午後になってまた、東海道線を西進する帰路へとついた。どこまで行っても混雑している昼間の東海道線に揺られながら、私はまた、のんびりとした汽車旅を続けたのだった。