96年も年の瀬、私は久しぶりに泊まりがけの旅に出た。直接の発端は、この年の冬に限って企画された「えちごフリーきっぷ」というものを見つけてしまったためではあるが、進学など慌ただしかった1年の締めくくりのこの時期に、気分転換もよかろうというわけである。私は、新宿から夜行列車の「ムーンライトえちご」に乗り込み、東京よりももっと寒いであろう新潟を目指していった。夏にこの列車に乗ったときは、すでに夜の明けた新潟で客の総入れ替えがあって、進行方向の逆転にもすんなり対応していたのだが、真冬のこの時期、新潟についてもいまだ夜は明けず、車内も同様、眠りの世界が続く。
外は暗いままでも、列車が終点の村上に着けば、車内の眠りは否応なしにうち砕かれる。私は村上から、さらに北を目指した。外は次第に明るくなり、岸辺に白く押し寄せる日本海の姿が、車窓に露わになってくる。ここは笹川流れのエリアで、岩はごつごつとし、時折大きなものも立ち、海岸線をおもしろくする。道路も線路も海に沿い、岩の間を縫うように進み、集落は海に立つ岩をシンボルとするように開け、海まで迫る山にまわりを封鎖されてせせこましく存在する。片側が海であるせいか、時折停まる人気のない駅も、どことなく開放的な感じがする。空は曇ってはいるが、粟島の島影も、次第にはっきりと見て取れるようになった。ところがあろうことか、冬の日本海につきものの雪の姿が、車窓には全く現れてこない。
鼠ヶ関の駅前はちょっとした街にはなっているが、まだ目も醒めやらぬといった雰囲気があたりに満ち満ちている。関址であり、義経上陸の地でもあり、史跡の多そうな街ではあるが、駅近くの「念珠(ねず)の松庭園」もまだ閉まっていて、住宅地の中に埋もれるようにひっそりと存在している。そして、近世念珠関(ねずがせき)址もまた、現代においては国道沿いの緑地帯としてのみ存在するのだった。奥の細道300年記念碑や、バス停付近の河原の妙なオブジェと同じように……。
冷たい海風に吹かれながら、私は弁天島へと歩みを進めた。陸続きではあるが、三角錐型に海に立つ、それは大きな岩である。一周する道もあるというが、崖下のかなり険しい道は、日本海の荒れ狂う波の直撃を受けていて、足を踏み入れるのもためらわれるほど。島の周りは漁港で、街は相変わらず静かだが、釣り人は活動を始めている。こんな時間ではとうてい観光地とは思えず、史跡の街というよりは、単に素朴な漁港の街と言った方があっているかもしれない。
鼠ヶ関の小さな駅舎も、むしろそういう雰囲気を演出している。外は寒いが、ストーブのせいで、誰もいないけど、暖かい。海もきれいなところだが、待合室や街なかから見える山並みも、それはそれで見応えがある。ぽつぽつとしてきたのは、雪よりもむしろ雨だった。
とりあえず笹川流れまで戻ろうと、私は上りの列車に乗った。列車はさっきよりもずいぶん明るくなった日本海に沿って進んでいく。粟島もよりくっきりと見え、波は相変わらず白く、激しい。私は笹川流れの中心付近にある桑川という駅に降り立った。ここは道の駅と同居しているがどう見てもそっちの方がメインで、係員がいないわけではないが列車に関与する人間は誰もいないらしい。
私は海沿いの道を歩いた。険しい地形だけに隧道も至る所に現れるが、隧道を抜けるたびごと、目の前には新たな海岸線が現れてくる。複雑な形の黄色い大きな岩に挟まれるように、それぞれの景色は存在する。そして、大小さまざまな岩の浮かぶ海に寄せる波は、相変わらず、激しい。遠くには常に、粟島の姿が控える。
板貝集落の海も、また激しい。集落の入り口には、巨大な木彫りの男根が存在する。いわくによれば、小正月の行事で、切り出した松を男根にし願をかけるとか。いわれは不明だというが、おもしろい。
荒れ狂う日本海と荒々しい海岸に沿って歩くと、1時間くらいで、長いトンネルを越えたところの今川集落へと入っていく。今川駅は純然たる無人駅であるが、その周りは民宿街に固められている。ここは「民宿発祥の地」なのだとか。細い路地沿いに、歴史のありそうな古い民宿の建物がひしめいていた。
今川駅から私は再び下りの列車に乗った。桑川まで来る途中の勝木(がつぎ)という駅に何か見所がありそうなのを見つけていたからである。筥竪(はこだて)八幡宮というところの社叢が天然記念物ということだったのだが、あろうことか、肝心のそこは崖崩れか何かで立入禁止。次の列車までの3時間の間行く場所をなくした私は、あてもなく歩くしかなかった。駅から見てその八幡宮のある岩の裏手に当たる碁石という集落へ、私は歩いていった。列車からも見えた、夫婦岩風の岩がシンボルとなる集落である。ここから見ると、その八幡宮のある岩塊は、海からものすごい高さで切り立っているのがわかる。海に面する部分は砂浜だが、波は当然のように高く押し寄せる。波の不気味なとどろきが、あたりを支配している。
私はとりあえず、勝木の駅前の集落へ戻った。高いところから見ても隙間だらけなだけあって、暇をつぶせそうなスポットは見あたらない。バス道に沿って本町らしき方へ歩みを進めると、家並みは古めかしく、より風格を持つようになってくる。それはそれで、趣があってよい。
勝木というのは何もないところではあるけれども、ここもストーブの暖かい駅だ。たとえ日本海の波が激しく国道に打ち付けようとも、ここだけは別世界らしい。筥竪八幡宮のある山は市街から見ると独立峰。いろんな植物が生えているというだけあって、隣の山ともどこか違って見える。中に入れなかったのが、本当に惜しい。
長かった勝木での滞在が終わる頃には、曇っていた空も晴れ上がってきた。私は村上へ上る列車に乗り込んだ。結局笹川流れの区間を何度も往復することになったが、波は高いままにせよ、本当に青く輝くようになってきた。午後になって太陽は西の空へ回り、もはやまぶしくてその姿を堪能することもできないほどだ。海は濃く青く、薄青い空との境界がはっきりと見てとれる。
村上の駅前や駅の近くの通りはかなり都会的な広々したものであるが、小国町通りという脇道は、道幅も少し狭い上に両脇を固める建物も木造の年季の入ったものになっていて、それなりに趣がある。食料品店の店先には必ず鮭が干されていて、ここが鮭とゆかりのある街であることを示す。その最たるものが鮭公園であるといえよう。近くの三面川は改修中で、鮭の捕れる梁場を目の当たりにすることはできなかったが、公園自体は庭園風に整備されている。村上の市街はここから見ると山々に囲まれ、その中でも雪をかぶった白い山がひときわ目立っていて、こうしてみると村上というのもなかなかきれいな街であるような気がしてくる。そして三面川と、鮭を呼ぶためにひかれた川との間の中州はなにもない広場として整備され、広くゆったりと流れる三面川共々のどかな雰囲気を醸しだし、きれいな村上をさらに演出していたのだった。
冬の旅というのは日が暮れるのが早く、異様な寂しさにつきまとわれるのが常である。村上を辞去する夕方5時、外はすでに夜であった。都会ならまだしもこんなところでは、車窓を流れる光もそう多くはない。坂町から米坂線に乗り継ぐも、たまたま道を行く車のライトに照らされて初めて、大きな荒川に沿っているのだということがわかる程度でしかない。私は越後下関という駅の闇の中へ降り立った。営業している店も当然わずかしかなく、道も広い上にやたら見せ物系の古い建物の多く建つ、妙に寂しい大通りを、私は温泉街の方向へ進んだ。上関共同湯は、民家の中に埋もれるように存在していた。外観通り、中のつくりも古めかしく、小さいところであるが、地元の人のための素朴な休息の場という雰囲気の満ちあふれる場所である。今日一日で重くなった体を休め、再び寂しい夜の道、私は新潟市内の宿へ戻っていった。
翌日、私は阿賀野川の流域を磐越西線で旅した。日本海に開ける大都会新潟の風景も、一駅も通過すれば途切れて、シーズンオフの茶色い田圃が見渡す限り広がるようになった。そんな風景も新津をすぎれば杉林の中の風景に、そして五泉を過ぎれば、それまで遠くを取り囲んでいた山道の風景に取って代わられていく。雨でも降ったか地面は濡れていたが、雪の姿はない。しかし山道を進んでいくにつれ、ようやく日陰には雪が見えるようになってきた。やがて列車は川沿いの崖の上をゆっくりと走るようになった。直下には緑色をした川がゆったりと流れる。対岸の国道も覆道となり、険しい地形であることがかいま見れる。
阿賀野川ライン下りの乗船場が三川駅の近くだというので、私はそこで列車から降りた。田圃と杉林だけが周りを囲む国道を少し進むと、立派な建物の乗船場はある。しかしそこには関係者しかおらず、さすがにほんとに営業しているのか、私は不安になった。実際、船は出るらしいが、私以外に客はいないようだ。寂しい乗船場の前を流れるゆったりとした川の対岸には、赤茶けた堂々とした山並みがぎりぎりにまで迫っている。
それからしばし、両脇を高く切り立つ山に囲まれる阿賀野川下りを、私は船頭さんと二人きりで進むことになった。水量は多く、ゆったりとしているように見えるけれども、流れは大きく蛇行して、ところどころかなり流れの急な場所もある。暖冬異変とかで雪はほとんどなく、そのことは船頭さんも残念がっておられた。普段のこの時期なら、2mくらいは積もっているのだという。
船頭さんは一人しかいない客に、実に親切に案内をする。そのおかげで私も、一人では気づきにくいオブジェに気づくことができた。ところどころ、渡し船のための施設がそのまま残ってもいるし、崖沿いの道には放棄された旧道のスノーシェッドの跡も見られる。その中には駐車場代わりにされているものもあるとか。過疎化はこの地でも例外ではないというが、住めば都で、夫婦二人でつき5万位しかかからないなんていう事情も、船頭さんは伝えてくれた。列車から見てかなり急な崖の上を走っていた場所は「山戸」というらしい。その険しさは船に乗って下から見上げると、なお一層、すごいものに見えてくる。雪が降れば樹木に花が咲いたみたいで、なお一層きれいだというが、それでも赤茶色の山並みは、それはそれで趣はあるし、さらに遠くには飯豊連峰やら阿賀富士やらが白い姿をさらけ出す。寂しくはあったが、きれいだったし、私にとっては上等の船旅となった。船下りの終点は「道の駅阿賀の里」となり、ちょっとした博物館も併設されていた。本当にちょっとしたものではあるが、建物の裏に流れる大河は、それは
悠々としたものだった。
道の駅からは鉄道の駅までの送迎バスが出ていたので、私は東下条という無人駅に送ってもらい、そこから再び磐越西線の旅人となった。船は下りの方向に進んだので、私は再び険しい「山戸」を、今度は鉄道で通過することになった。快調にとばす列車も、ここだけはゆっくりと進んでいった。集中豪雨の被害もあり、その影響が残っているという事情もあったらしい。山戸を過ぎてからも列車は、山と川しかない風景の中を進んでいった。日陰に残る雪の姿も気のせいかだんだん増えていき、家並みの屋根の形も、会津の影響を受けた特色あるものに変わっていく。
私は山の中の日出谷という駅に降り立った。聞いた話では昔は機関車の付け替えをする駅だったらしいが、今は農協が同居する単なる無人駅で、名残の広々とした更地は寂しさを呼ぶばかり。しかしそのおかげで、ホームから見える山並みはどことなくきれいに見える。近くにそびえる山も若干雪化粧している。とりあえずどこかに行ってみようと、私は国道を、やってきた方向に戻るように進んでいった。地図上では川沿いに走る道であるけれども、実際にはあくまで杉林の中を進んでいく。
小さな集落をいくつか越え、30分くらい歩いた頃だろうか、中村という集落があり、そこには護徳寺観音堂というものがあった。比較的多く雪の残る御神木の林の中に、小さな藁葺きの建物が一つ。見かけはささやかなもので、雰囲気も静か、屋根からしたたり落ちる雪解け水の音だけが辺りにこだまする。案内によれば会津にも越後にも例を見ない独特な形式の建物であるという。なるほど、この集落の建物の屋根を見てみればかなり会津的な雰囲気を感じることができる。
私は再び日出谷駅に戻り、平瀬(びょうぜ)橋を渡った。橋の上からの下流方向の眺めはとてもすばらしい。背景には白く大きな山がそびえ、黄緑色の低い山の間を大河がゆったりと流れ、その上を鉄道が赤い鉄橋で通っていく。何というかスケールが大きく、このまま絵はがきにしてやれそうな、頼もしさのある風景が広がる。
平瀬に向かったのは平瀬鐘堂というものがあるらしかったからだが、そこに案内があるわけではなくて場所がよくわからず、私は単なる、平瀬という集落を訪れた異邦人ということになった。しかし、広大な田畑の向こうに開け、また大きな山並みの麓に広がる平瀬の集落は会津的な建物で占められ、のどかで、何というか安らぎのある、そんな雰囲気を作り出していたのだった。
日出谷の駅で列車までの長い時間を過ごし、夕刻にさしかかろうという頃、私は新潟市内に戻る列車に乗り込んだ。雄大な川の流れは、だんだんと夕闇に包まれるようになってきた。着いた新潟の街は、この旅で今まで見てきたどこよりも、車は多く、明るいし、暇することはないように感じられた。ライトアップされた万代橋も、幻想的で、それはきれいなものだった。
翌日は1996年の大晦日。夕方には関東に戻る用事があったので、私は新潟市内に的を絞ることにし、バスに乗って鳥屋野潟(とやのがた)という沼へ向かった。バスはかなり広い通りを進み、そしてきわめて広くゆったりと流れる信濃川を渡っていく。まさに大都市といった様相を呈するが、それも中心を離れるにつれ、どことなく郊外的なものになってくる。
鳥屋野潟に面する地帯には、時期だけに人気のない野球場や科学館を含めた公園として整備されている。私は静かな雰囲気の中、科学館の裏手に回り、公園の中の展望台の上から、その細長い沼地を眺めた。奥行きはないけれど、左右には限りなくのびる大きな沼で、周りを取り囲む建物もそう大きくはなく、広々としたのどかな風景が広がる。ちょうど白鳥の飛来するシーズンで、沼にはたくさんの白鳥が泳ぎ、彼らが鳴く声だけが辺りに静かに響きわたる。沼辺には蘆が茂り、湖水と直に接するのはこれでは難しそうだが、展望台から降りて沼の面と同じ高さまで降りると、奥行きはないといってもそこいらの川よりは当然幅広く、ゆったりと広々として見える。人の少ないそんなゆったりとした風景の中、私は歩きながら、すがすがしさを感じていた。もっとも水は汚れているのだろうけれど、周囲は都会化されていても、水の上までは開発の手は及びにくいということか。それにしても雪はないし、さぞ白鳥も過ごしやすかろう。
初詣の準備に忙しそうな白山神社を見つつ、私はバスで、とにかく日本海の方へ移動した。海の近くの松林の中に県護国神社があり、その境内にはコンクリートで作られた、朽ちかけた展望台があった。簡単な施設だが、その上からの日本海の眺めは、それはすばらしいものだった。曇っていて佐渡までは見えないものの、時折そこへ向かう船が行き交い、静かで、どこまでも青い。
私は近くの海岸に降りてみた。テトラで固められた海ではあったが、本当に静かで、きれいに青く輝いている。新潟にはきれいなものがたくさんあるのだ、ということを、私はこの旅を通じて、良く理解できたような気がした。
私の新潟旅行も、あとは帰るのみになった。信越本線の普通列車は、のんびりとした田圃の中の風景を、やっぱりのんびりと走っていく。遠巻きに平野を取り囲んでいた山並みは、長岡から上越線に乗り換えてしばらく行くと、線路のすぐそばにまで迫ってくるようになった。雪の姿はゲレンデはともかく普通には日陰にしか見られなかったものだが、山奥へ分け入り、トンネルを何度も何度も越えていき、塩沢、大沢、石打、そして湯沢と、スキー場としてよく名前の聞かれる地帯へと進んでいくと、一面とはいかないまでもだいぶ雪が残るようになってきた。そして上越国境も近い中里、土樽まで来て、車窓にはようやく、一面雪で覆われた田圃が広がるようになったのだ。この旅に期待したにもかかわらず道中ほとんど見ることのできなかった景色を、私はこうして、旅の終了間際にしてようやく、堪能することができたのだった。