伊勢・志摩(2000.3.20-24)


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 非常勤講師稼業の者にとっては春休みは契約の更新期にあたるから、旧年度での仕事が完了すれば、新年度の開始までは全く何にも縛られることはない期間が続く。だから昨年のように長旅をすることも可能になるのだが、今年は違った。春休みのど真ん中に、新年度に勤務する学校の招集日があったのだ。したがって大胆な長旅はできないことになったのだが、青春18で動ける程度の短い期間ならばと、中部東海方面の旅を検討すると、著名な観光地でありながらまだ訪れたことのない場所がいくつか。さしあたって春休み前半の旅は、伊勢志摩方面に向かってみることにした。

 寒暖の差の激しい中にあって比較的寒い夜、花粉症の鼻詰まりに耐えながらムーンライトながらで名古屋まで、そしてさらに関西本線の普通列車へ乗り継いで行く。霜でも降りそうな田園風景が、四日市の工業地帯の風景へと様変わりするにつれて陽は高く昇り、車内も暖かく、心地よい眠りに誘われていく。私はさらに亀山で乗り継ぎ、高校生の通学で混雑していたはずの車内から彼らの姿が消えてしまったことに気づかないほど、安らいだ時を過ごしていた。

二見浦夫婦岩 私は伊勢市からさらに区間運転の列車に乗り継いで、二見浦駅に降り立った。駅前に広がる街並みはどこにでもあるような小さなものだったが、今までに見た他の街と決定的に違っていたのは、どんな小さな家や店にも必ず注連縄飾りがついているということだった。夫婦岩を模したと見られる駅舎をあとに、そんな街中を進んでいくと、やがて古めかしい建物の並ぶ旅館街へと誘導されていく。海岸沿いに並ぶ旅館街の裏手には二見浦公園という松林が、青い海に映えて美しい風景を作り出し、海岸線はコンクリートで固められているけれど、満潮なのか波は激しく打ち付け、海藻も赤色のが多く打ち上げられている。天気も風も穏やかに見えるが、伊勢参りの前の禊の浜とされていたという歴史を彷彿とさせる。夫婦岩はすぐ近くにあって、車で直接乗り付けることもできるためか、海岸と違って人の姿も多く、ここが著名な観光地であることを示している。海岸にへばりつくような神社の境内からは、太い注連縄の渡された二つの巨大な岩は目の前に見ることができる。そしてこの夫婦岩を境に、続く海岸線はごつごつとした険しいものとなり、鳥羽のリアス式海岸の入り口にあたる場所であることがよくわかる。私は、複雑に入り組む海岸線をかすめながらごつごつとした山並みの中を進むようになった列車に乗り込み、参宮線の終点の鳥羽駅に降り立った。

日和山より鳥羽駅方面 鳥羽駅はいかにも観光地的な駅で、崖と海にはさまれた狭い領域に小さな街並みや見せ物が固まっているようだ。駅に迫る崖は日和山といい、鳥羽湾の風を見るために昔から登られていたという。標高2桁の低山だが坂はきつく、椿などの広葉樹も見られるうっそうとした林の中の登山道を登りつめると、鳥羽の複雑な多島海が一望のもとになった。少し霞はかかっていたが、たくさんの大きな深緑の島々を浮かべた海は青く澄み渡り、すがすがしい風景が眺められる。何艘かの漁船がゆったりと島々の間を進み、時折列車の音も響くが、それ以外は至って静かで、優雅な雰囲気が広がる。日和山の中にはたくさんの小道が通り、展望台も廣楽園と呼ばれるもう一つの、高度は低いけれど海をより間近に眺められるところもあり、さまざまな角度からきれいで華やいだ鳥羽の海を楽しむことができたのだった。日和山の反対側へ下りの山道を抜けると、唐突に、神社の上から鳥羽の街の古めかしい部分を眺めることができるようになった。木造瓦屋根の古い建物や大きな寺、九鬼水軍の頭の城であったらしい鳥羽城の緑の丘、街並みに降りた私はそれらを回り込むように、中之郷駅を通って歩いていった。海沿いに出るとそこは鳥羽水族館の立つにぎやかな大通りとなり、全く雰囲気の変わってしまったにぎやかな大通りを、私は鳥羽湾めぐりの遊覧船の乗り場を目指していった。

鳥羽湾 遊覧船に乗り込めば、日和山の上から眺めたすがすがしい海を楽しむことができるが、まだまだ風は冷たい。陽射しは暖かいけれど、まだまだ冬と春の狭間であるらしい。伊勢湾と鳥羽湾を分ける飛び石のような飛島をはじめ、大きな島、小さな島が、時には立て続けに、時には広い間隔で現れ、つかの間の優雅な船旅を楽しみ、私はミキモト真珠島で下船した。真珠島は要はその真珠の会社の創設者を記念した公園なのだが、なかなか見ることのないものをいろいろと見ることができる。海女が海にもぐってあこや貝をとってくる様子も見られたし、真珠博物館ではあこや貝に核を植え付ける手術、いろんな品質の混じっている真珠をいちいちより分けるところ、そしてその大きさをそろえてネックレスにするところまでを見せてもらうことができた。映像としての知識はあっても、実物にかなうものはないと私は強く感じた。特に真珠の選別など、よくもあんなにさっさかさっさかと手が動くものだなあと、ただただ感心するよりも他にない。真珠という宝石にはいかに手がかかっているのか、その価値がよくわかる展示であった。御木本幸吉記念館には、いわば創業者のサクセスストーリーが展示される。今でこそこのあたりの海には当たり前のようにあこや貝の養殖がされているが、初期は試行錯誤の連続だったという。しかし度重なる失敗にめげなかったことが、真珠の一粒一粒の輝きに結びついているのだと思うと、その業績には頭が下がる。島内の食堂で、真珠うどんという、やたら太くて貝の足のような伊勢うどんにあこや貝の貝柱の佃煮がついてくるものを食したというのも、あこや貝が食べられるなんて知らなかった私にとっては、貴重な経験になったのだった。


 私は伊勢市内に宿を取り、翌日は近鉄線に乗って鳥羽のさらに奥、志摩半島を目指した。JRよりも内陸を行くこの線の車窓は、五十鈴川までの住宅地にしても山並みがより近く、田んぼが広がればどこか懐かしい風景となって一面に広がり、やがて、朝熊(あさま)山の中へと分け入っていくような険しいものへとなっていく。そんな険しい地形に入り江の青さが加わるようになると昨日訪れた鳥羽に入り、今日もすがすがしい鳥羽の海に沿って、明るい雰囲気の中を行くようになるが、鳥羽の市街地を抜けるとまた、山並みの間に田んぼが広がり無人駅ばかりが続く風景に代わっていく。
横山展望台より
 私は志摩横山という無人駅で下車した。低く細い木々の茂る明るい雰囲気の林の中に伸びる緩やかな坂をしばらく登っていくと、30分ほどで横山展望台にたどり着く。冷たい風は強く吹いていたが天気はよく、昨日の鳥羽の海とは比べ物にならないほど複雑な海岸線が接し、深緑の島々が高密度に浮かぶ英虞湾が、逆光に霞がかかったような感じで広がっている。「溺れ谷」という術語がよく似合う、緑の台地の奥深くまで海が入り込むさまに、私は風が冷たいのも忘れ、しばし見惚れるより他になかった。

大王崎より 案外大きな街並みの広がる鵜方駅から、私は志摩半島へ向かう路線バスに乗り込み、大王崎を目指した。最寄のバス停の周りは波切(なきり)という素朴な漁港の街で、そこいらで魚が干される明るい街の中に、よくある風景として多少の土産物屋も並ぶが、素朴な魚屋と高級な真珠を扱う宝石店が入り混じっているというのは何とも奇妙な感じがする。大王崎灯台はそんな街の風景によく溶け込んでいる素朴な灯台だが、近くの展望台から見ると、その白い灯台は、街並みとともに険しい断崖の上に建っていたのだ。街中を歩いている限りは気づきにくいが、展望台からはどちらを見ても断崖が続き、外海の風も強く打ち付け、決して穏やかな場所ではないことを感じさせる。灯台に上ればさらに高い位置から、波切の集落やその崖下に打ち付ける海が一望のもとになり、広々とした風景となる。しかし、風はあまりに強く、恐怖を感じるほどだった。

 私は志摩半島をさらに西へ向かうバスに乗り込んだ。カーブや坂を繰り返す山道と、海沿いの道と、集落の中の細い道が代わる代わる現れ、バスの車窓も変化に富む。私は半島の真ん中にあたる和具の集落でバスを降りた。和具の街は、バス停近くの外海と、定期船が発着する英虞湾に挟まれた1 kmほどの細い路地に広がる、至って平凡な街で、立ち寄る価値は手こね寿司を本場で食べるということに終始することになった。ここで多く上がるというかつおの醤油付けと酢飯を混ぜただけの、時間をかけない漁師の料理なのだが、それなりにおいしいものだった。

御座 そして私は最後の山道に頑張りを見せるバスに乗り、ついに志摩半島の先端の御座に到達した。道はバスの終点と定期船乗り場を兼ねる広場で途切れ、訪れる人もあまりなくて、わずかな食堂があるもののきわめて寂しい、先端の旅情にあふれる集落だ。御座の街の背後にそびえる金毘羅山に登ると、ここが志摩半島の先端であるということがはっきりと見て取れた。対岸の浜島に向かえば、左に広く広がる海は、右手に視点を移すと英虞湾となって、緑の台地の奥深くにまで入り込んでいる。そして振り返れば、さっきの大王崎までの志摩半島のすべてが視界に入り、その外側に広がる熊野灘までが見渡せる。天気はとてもよく、風は強いけれど、細く入り組んだ英虞湾とそれを囲む緑の大地は、あくまでも穏やかに横たわる。さっきの横山とは反対から英虞湾を見ている格好になるが、こちらの方はより海に近いので、複雑に入り組む陸地の形、海の形は、よりはっきりしたものとなって視界に広がっていた。細い道を下った御座の街はたくさんの家が所狭しと敷き詰められた窮屈そうな集落である。この街に接する磯浜には特殊な地蔵様が鎮座する。干潮時は普通に浜辺に立っているのだが、潮が満ちると首から下が海面下に沈むらしく、顔は白いのだが首から下にだけ貝や苔がこびりついて黒ずんでいる。あまりにぎやかではない素朴な港町を陰から見守るかのようなお地蔵様とともに、私はしばし、海岸に立ち並ぶ岩や対岸の崖を、冷たい風を浴びながら、眺めていたのだった。

 私は他に客のいない、よくゆれる近鉄の小さな定期船に乗り、飛沫をダイナミックにあげるさまをガラス越しに眺めながら英虞湾を渡った。あこや貝を養殖する海域もすぐ近くにあったりする、緑の崖に囲まれる青い海をしばらく進み、ド派手で大きな遊覧船とすれ違ったりもしながら進んでいくと、船はやがて賢島港へと到着した。近鉄の駅へと通じる路地には明らかに観光客向けと見られるわずかばかりの商店街が続くが、まだまだ明るい時間なのにほとんどが店を閉じて寂しいばかりである。賢島駅の反対側に回ってみても、旅館へ直行するバスの乗り場しかない典型的なリゾート地入り口の駅でしかなく、私は特に何も見ることなく伊勢市の宿に戻ることにした。海の風景を見続けたあとに、山並みの間の段々畑の広がる懐かしいような風景を車窓に見ることができ、私はどことなくほっとした気分に包まれていたのだった。


外宮勾玉池 滞在3日目は、伊勢市に宿泊しておきながら先送りになっていたお伊勢参りを十分に楽しむことにした。早めに宿を出たので、外宮に向かう参道では朝食を出す食事屋以外の店はまだ開かないが、よい天気のもとそれなりにすがすがしい朝の風景が広がっている。そんなにぎやかな参道から鳥居を一つ超えて外宮の神域に入ったとたん、辺りは鬱蒼とした森に包まれた。外の明るい雰囲気とは一線を画す、厳粛で思わず襟を正したくなる雰囲気が、鳥居の内側のすべてに満ちていたのだ。もっとも本殿の間近に行くことができたわけではなく、参道も閉鎖されているところが多く、いろいろなところを見てみたい向きには正直不満が残るところだったのだが、参拝者休憩所を兼ねた勾玉池の周りには太陽の光が満ち溢れ、のんびりと泳ぐ鴨とともに、私もしばらくのんびりとした時を過ごすことができた。

 私は外宮の近くの観光案内所で自転車を借りて、伊勢市の市街をいろいろとめぐってみることにした。まずは昔ながらの道をたどってみようと、旧参宮街道へ向かった。商店や家並みも見られる普通の道ではあるが、所々その家並みの隙間からその向こうを見てみると、田畑や丘陵でさえかなり低いところに見え、この街道が外宮と内宮を結ぶ尾根の上の道であって、自分のいる場所がとても高い位置であることを示す。その街道沿いに、古市という、歴史的な遺構も多く残る街がある。今でこそなんでもない市街なのだが、実は江戸時代には遊郭として栄えていたのだという。街中にたたずむ小さな街道記念館に立ち寄りこの街について学んだことによれば、油屋で起こった遊女の取り合いからの刃傷事件は今でも歌舞伎のネタとして使われているといい、その模様を想像するのが困難なほど、賑わいを示していたのだそうだ。そんな賑わいに終止符を打った事件が、ごく近代の太平洋戦争中の空襲だといい、やるせない気持ちにもなる。街中に立つ「麻吉」という旅館は当時の賑わいを唯一現在に伝える建物だという。尾根の斜面にへばりつくように立つ旅館は古めかしい木造で、周囲の建物とは明らかに異なる風情を見せる。坂を下る道からはいくつかの渡り廊下が見え、和服姿の宿泊客がひょっこりとあらわれて行き交っていそうな雰囲気があったが、そんなどこか懐かしい風景に出会うことができなかったのが残念である。

内宮 そのまま、小さな社などにも顔を出しつつ参宮街道を進むと、常夜灯が並びかなりの賑わいを見せる大通りに出て、そのまま私は内宮に到着した。厳粛に見えた外宮と違って、入る前からすでに多くの参拝客を集めて賑わいを見せている。境内も外宮よりも広く、入り口の宇治橋を越えて鳥居をくぐっても、外宮のような鬱蒼とした森しかないのではなく、むしろ明るい雰囲気に出迎えてもらえる。五十鈴川のほとりの神域には川に降りられるポイントもあり、きれいな水には鯉や小さな魚がたくさん、のんびりと泳いでいる。私は最も奥の正宮本殿へ向かった。奥まっていくにつれさすがに木々も茂り、神聖な雰囲気が強まってくる。別宮もたくさん点在し、それをめぐりながら、薄暗いけれどどこか明るい境内をのんびり散策するのも、また心地よいものだった。

おかげ横丁 参拝を済ませ、私は内宮の入り口の、おはらい通り、おかげ横丁といった繁華街へ繰り出した。本当に古い建物や、古めかしく作った建物が多数並び、よくある土産物やら、赤福や生姜糖やらを売っていたり、食事を出したり。さっきの古市はひっそりとしてしまっていたけれど、ここは今なお賑わっている街で、そぞろ歩くだけでも楽しさを感じることができる。おかげ横丁の中には、「おかげ座」というお伊勢参り資料館があり、江戸時代の大変だけれど楽しそうなお伊勢参りの様子を映像やジオラマで教えてくれる。60年周期くらいで日本人の5人に1人が訪れるというブームが訪れたといわれるが、「伊勢は行きたし伊勢路は見たし」という志を持っても、実際には一生に一度級の大変なことだったという。しかし地域住民代表のお伊勢講として行くにしても、自由意志の抜け参りで行くにしても、伊勢の人々は大変な旅をする彼らにさまざまな無料の援助を施し、そんな人々の「おかげ」で、多くの旅人がお伊勢参りを完遂することができたのだそうだ。この、大変だけれども助け合うことで楽しむお伊勢参りこそが、日本人の観光旅行のルーツとも言われるとのことで、今でこそ私のように、思い立ったときに気ままにどこにでも出かけていくことができることが、いかに恵まれていることなのか、そのことを覚えておかなければならないなと感じさせられた展示館であった。

 私は「御幸通り」を、伊勢の市街の方へ行った。旧道より広くて走りやすく、常夜灯も並び、現代の参宮街道という位置付けなのだろうということはすぐにわかるのだが、街並みがあるわけでもなく、ましてや古市のような遊郭などあるわけもなく、所々伊勢神宮の別宮にあたる小さなお宮が森の中にひっそりと佇んでいたり、神宮付属の博物館群や神道系の学校などがあったりして、どちらかといえば硬い雰囲気に包まれていて、開放的なおかげ横丁とは対照的な街道だ。車で直行する現代の参拝者には立ち寄り所は必要ないとでも言うかのようである。朝はよかった天気も曇りがちになり、辺りはなおのことひっそりと静まり返る。

 伊勢の市街に帰った私は、参宮線の北側に回り、古い街並みがあるという河崎のほうへ向かった。それなりに期待していたけれども、あらゆる建物がというわけにはいかないようで、新旧混在の街並みといったところか。もちろん古い家や蔵が続き黒っぽい雰囲気になっている街並みに、おちついたしっとりとした味を感じたことはいうまでもない。内宮やおかげ横丁でのんびりしすぎたためか、もう自転車の返却までは時間がなく、私はペダルを漕ぐ力を強めつつ、市街地の外縁を急いで大回りしていった。昔の参拝者が必ず渡し舟で渡らなければならなかった宮川の土手に上り、川に架かる橋の高さや長さからその大変さを垣間見つつ、外宮前の観光案内所に戻りついたのは閉まるわずか前、今朝方はあんなにいた参拝者の姿も、ごく少なくなってしまっていたのだった。

 夕食後、私は河崎の街並みに見つけた銭湯へ繰り出した。日本の銭湯文化は伊勢が発祥であると主張し、さまざまな工夫を凝らしている面白い銭湯である。その中でも目を引くのは、毎朝毎晩二見浦から海水を汲んできてそれを温めているという「おかげ風呂」である。昔からお伊勢参りの参拝客の疲れを癒していたのと同じ方法をとっているのだと。私は伊勢市街の隠れた名所を見つけることができたような気がして、うれしい気持ちになったのだった。


 こうして私は、鳥羽、志摩、伊勢での、観光旅行のルーツを探る旅の日程を終え、翌日は普通列車の乗り継ぎで家路に就くことになった。往路は夜行列車からの乗り継ぎで直接伊勢に入ったが、帰路は伊勢に達する街道をゆっくりと戻ってみることにした。昨日の夜中は最終的には雨天になったけれども、今朝はすっかり晴れ上がり、道はまだ乾ききらないけれど、列車から見える田畑は水を得て若干活力を得たかのように展開する。

 私はまず、松阪で途中下車することにした。松阪といえば「牛」ということで、賑やかな街中には至るところにすき焼きの店や牛肉専門店が見られるが、ある一角にはたくさんの史跡が集中する。松阪木綿や和紙で財を成した豪商を4家も出した大商人の街として、三井を含む有名な名前が街中に轟いているのだ。その中にあって、松阪商人の館として小津の家が公開されている。修復されただけの昔ながらの建物は広くていかにも金持ちが住んでいそうな雰囲気だ。そんな古くてとてつもなく大きな建物が織り成す落ち着いた雰囲気の一角は、たくさんの店の並ぶ賑やかな大通りの片隅に、落ち着いた味を添えている。

松阪城址 そんな街中をしばらく歩いていくと、高い石垣が目印の松阪城址公園があった。天守閣などの建物が残っているわけではないけれど、石垣の回廊のような園内は散策にちょうどよい。石垣の上にも、城内側からは自由に登ることができるようになっていたが、「石垣の端に近寄らないで下さい」という掲示が、あくまでさりげなく立つ。その掲示が示す通り、石垣の最外縁はかなり高い急斜面となる。ここから突き落とされた忍者は間違いなく生きてはいないだろうという恐ろしい想像も容易についてしまうほどだ。下を見ないように気をつけて、最外縁からまっすぐ外側を見れば、ある小説で西洋菓子に例えられているという、たくさんの家がぎっしりと詰まっている光景が、どこまでも広く続いている。

 私は園内にある本居宣長記念館を訪れた。医者にして国学者であるという彼の仕事をよく理解できたわけではないが、病院のようなことをやったり、古典を読んだりして暮らしていたという彼の、何ともいえない謎の行動を含めた日常そのものが今目の前にあるということに、どことなく不思議なものを感じた。不思議といえば、城の裏門前に隣接する御番城屋敷の長屋である。2つの長屋に挟まれる道は石畳になり生垣もあり、いかにも整備されたものといった感じなのだが、公開されているのは一角だけ、あとは現に人が住んでいる。人の営みそのものが文化財になっているということなのか。実際に住んでいる人は、この文化財の中での生活を、どのように感じているのだろう。

 早めの昼食の後、私は列車で津へ向かった。今日は晴れるという天気予報だったにもかかわらず、むしろもう一度大雨がやってきそうな低い雲に辺りは覆われ、鈴鹿の山並みも霧をまとったシルエット状にしか見えてこない。そして時々、雨は強く窓に打ち付けてくる。津駅に降り立ち、私は適当に津の市街を散策してみることにした。駅近くの津偕楽公園は一応特別名勝ということにはなっていたが、桜のない季節には単なる公園でしかなく、私はそのまま歩みを進めた。県庁前の不自然にきらびやかな大通りや、線路の東側のな津・お城公園んでもない街並みの保育園の隣に突然厳かに鎮座する四天王寺などを垣間見つつ、津の街並みを散策するうち、私はやはり春の嵐に見舞われることになった。さすが県都といった感じの交通量の多い6車線道路もあり、その賑やかな雰囲気はお城、市役所の方へ向かうにつれて、さらに賑わいを増していく。

お城公園庭園 激しい風にあおられながら、私はお城公園を訪れた。石垣だけが残る小さな公園ではあったが、松阪よりも敷地の高低差がない分入りやすい感じがする。それでも石垣はやはり高い。石垣の上には一つだけやぐらが立ち、灰色の上に堂々とした真っ白な姿をさらす。中には噴水や、小さいながらも日本庭園があったりして、ちょっとした散歩としては気持ちよく歩けるところだ。

 帰宅するためのタイムリミットが近いことを気にしつつ、私は津駅に戻り、駅前の県立博物館をのぞいてみることにした。三重県全般にかかわる生物系、地学系、人物系に渡る展示を持つ小さな博物館だが、40円という入館料の割には充実しているという印象を私は受けた。その中でも特に印象的な展示は、飼育されているオオサンショウウオだろう。シーボルトが世界に最初に紹介したオオサンショウウオは三重県内の赤目川流域で採集されたものだったのだそうだ。また、今回訪れた和具の海に泳ぐ魚の紹介や、鳥羽で発掘された恐竜の化石などもあり、小さい割に今回の旅の総括もできた上それ以上の楽しさも感じられるほどの盛りだくさんの展示に、もう少し時間をかけて訪れればよかったかもしれないなあという後悔の念を生じる結果となったのだった。

 こうして私は、不安定な天気のままだった三重県を後にし、快速、普通列車の乗り継ぎで長津田への帰路に就いた。名古屋駅のホームには寒風が吹きすさんでいたが、空は晴れ上がり、車内では陽だまりでの心地よい昼寝を楽しみながらの帰路になったのだった。


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