近年私の夏の旅行は、教採に金を取られてしまうためにあまり贅沢な真似ができない。今年は石川県の2次試験のために青春18切符を使用したため、その余りを使った長めの旅が可能になった。行き先として選んだのは忍者関係の史跡のある戸隠を含む長野県北部方面、以前なら碓氷峠越えを楽しみにした方角だが今やそれも18切符では不可能な話、私は中央本線をひたすら下ることにした。ちょうど天気の変わり目らしくどんよりとした空模様の中、列車は山間の険しい谷に沿って山梨県を西進する。立ちはだかる山並みのもとにあってはすべての建造物はあくまで小さい。曇天の山梨県を抜け、諏訪湖岸や岡谷の大きな街並みを通る頃になると天気は持ち直し、快晴とまではいかないまでも、広々とした田圃とともに明るい開けた車窓が展開するようになった。
終点の松本から北信方面へは篠ノ井線がつなぐ。松本近辺の盆地を過ぎれば、しばらくは山間に田圃の広がるのどかな風景が続く。やがて姨捨山にさしかかれば、車窓には更埴や長野の市街地が一望の下になり、まるで天上界から街並みを見下ろしているかのような清々しい風景となり、列車は斜面づたいに回り込むように時間をかけながら、その市街地へ降りていった。
しなの鉄道線と合流する篠ノ井駅から一駅だけ列車に乗り、私はそこそこきれいな街並みの広がる屋代から、さらに長野電鉄の列車に乗り換えた。だいぶ前に乗ったことのある路線だが、当時と異なり車両は日比谷線のお古のまぶしいばかりの銀色で、クレオソート色の木柱が昔のままどっしりと居座るホームとはあまりに対照的すぎる。わずかばかりの家並みの他はのどかに畑が広がる沿線も昔とそう変わるわけではないが、最近従えるようになった高速道路はやはり昔ながらの風景に当時とは違う印象を添える。
私はやはりクレオソート色の世界である松代駅に降り立ち、レンタサイクルを借りて市内を巡ることにした。天気は良くないけれどその分風は涼しい。真田の城下町ということで、街なかには史跡や古めかしい家がそこいらに点在するが、そんな市街地を離れ、だらだら坂道を登っていくと、あたりは山間の田圃の風景へと変わり、小高い山の麓を流れるせせらぎにそって登っていくと、松代地震観測所の入り口があった。ここは公開されているわけではなく、山奥の雰囲気を味わいながら説明を読むしかないのだが、私の松代という街に対する興味は大本営予定地跡を利用した地下壕が巡らされているということにあったのである。象山という別の山に掘られた地下壕の方は公開されているというけれども、残念ながらこの日は休館ということだった。またくる機会があったときのために場所くらい覚えていこうと、私は田園風景の中、重力に任せつつ自転車を象山の方へ導いた。そこは鍵がかかっていたけれど、地下壕の説明は見ることができる。こんな田舎道の下に碁盤の目のような地下壕があるということ自体も不思議だし、結局本
来の目的で使われることもなかったためにこの古い街並みやのどかな風景も破壊されずにすんだと思えば良いのだけれど、ムクゲの花が物語る朝鮮人動員の歴史については手持ちのガイドブックには触れられてなくて、またの機会にはこの地の昭和史についてもう少し深く学びたい、という思いを私はさらに深くしたのだった。
私は引き続き街の中へ自転車を進めた。昭和史だけでなく、真田の城下町だった頃の史跡の類にも興味深いものがある。旧横田家という復元された武家屋敷は静かなところで、庭園まであるというのがこの松代の武家屋敷独特のものだという説明もあったが、庭が菜園になっていて仕えていた人が栽培をしていたというのも面白い。街なかには松代藩の藩校だったという文武学校もあり、設立が新しいせいもあってか、孔子廟がなく文武両道を目指すなど先験的な部分があった学校らしい。今となっては建物しか残っていないのだけど、座学をする東序、西序や剣術、柔術、槍術所などに黒光りする床板は、1枚戸を開ければ誰かが出てきそうな何とも言えない臨場感をもたらしてくれる。その近くには真田邸跡という屋敷が残されている。現存する大名の別邸という意味でも珍しいらしいが、庭園を中心とする古めかしい建物が生きながらえる。惜しむらくは庭園の水が汚いという所か。松代城跡もあるにはあるが石垣のみが残り、目下何かの工事をしている。今は単なる草原の中の桜の林となっているが、どのように復元されるのか、楽
しみにしているところだ。
夕刻の近づいた頃、私は松代から長野に向かうバスに乗り込んだ。松代の街のにぎやかな部分を選ぶように進んだバスは、やがて多少は田圃や果物畑の見られる中を進むようになる。しかしあくまで長野市内であるということなのか、建物が途切れることはない。川中島の古戦場の近くも通るのだけれど、言われなければそれとはわからない。やがて、バスは巨大な街並みの中に吸い込まれ、私は今回の宿のある長野の市街へとたどり着いた。昼間どんなに蒸し暑くてもここはまず熱帯夜にならないという話を聞いたことがあったが、宿までの道のあまりの涼しさに、私はそれが間違いでないことを知ることができた喜びに浸ることができたのだった。この夜、関東は鉄道がほぼ完全に麻痺する大荒れの天気だったらしいが、長野の空模様はきわめて穏やかであった。
熱帯夜にならない街では朝の散歩もきわめて快い。翌朝、私は賑やかな通りをのんびり歩きながら長野バスターミナルまで行き、ここから戸隠方面のバスに乗り込んだ。バスは歩いてきた街の中の広い道を善光寺目指して進み、大門から細い道へ回り込んで本堂の前をかすめていく。堂々たる本堂はバスの車内からもとても大きく見え、私も思わずガラス窓越しに手を合わせた。やがてバスは本堂の裏に回り込む。すると寺の背後に控えていた緑の山が目の前に立ちはだかり、道路も頻繁にカーブを切るようになる。うねうねと高度を上げていくバスの背後、そして車窓には、山並みに囲まれて広々と広がる長野の大都会の様子が、時には木陰から、時には一面に、堂々たる景観を作り出す。そのうち市街地と完全に別れを告げても、バスは依然として林の中の山道を進む。七曲がりと呼ばれる覆道は特にきつい上り坂で、エンジンの息づかいからも振動からも、苦しみながら登っているバスの心情がありありと伝わってくる。そして、覆道を出ると道の高度は隣の丘陵と肩を並べられる程になり、さらに向こうの山並みとともに、今までとは全く違う清々しい眺めの山道へとバスは進んでいく。一部の斜面に
はリンゴ畑も見られたりする中、近くの山並み、遠くになってしまった長野市街を横目に見ながら、バスは坂道の上下を繰り返す。道の上下だけでなく風景からも、辺り一面山並みの中を進んでいる様子が伝わってくる清々しい道を、しばらくバスは進んでいく。
池の周りに賑やかそうな雰囲気の見られる飯綱高原を過ぎ、バスは鬱蒼とした森林の中、さらに坂道を登り続け、戸隠村に入ってもなお、車窓にはカラマツや白樺の林が続いていく。やがてバードラインを抜けると、戸隠神社関係の建物と、その周りに広がるわずかばかりの街並みの中へバスは進んでいった。門前町という意味では長野市と同じだけれど、坂道は相変わらず急で、道を囲む森も相変わらず深く、鬱蒼とした雰囲気は失われることがない。戸隠中社の領域まで来るとそれなりに賑やかそうな街並みが続き、やがてバスは街のシンボルであるかのような巨大な中社の鳥居にたどり着いた。さすがに圧倒されそうな雰囲気を何とかかわし、バスは引き続き林の中、奥を目指していった。
奥社入り口のバス停付近は中社とは大きく異なり、土産物屋の建物の他に街並みの様相は見られず、まさに深い森の中の停留所であった。そして辺りは、高原という名に決して恥じることのない涼しさに包まれている。私はバス停のすぐ近くの林の中にある、戸隠民俗資料館、そして戸隠(とがくれ)流忍術資料館を訪れた。展示自体はよくある古いものの展示であり、資料館の建物はともかく敷地内の忍者屋敷は実物の移設というわけでもないようで、戸隠流特有の手裏剣であるセンバンの実物を見られたということを除けばどうも胡散臭いのだが、その忍者屋敷はからくり屋敷という名前で楽しませてくれる建物だった。ここが他の忍者屋敷と違うのは、館内の順路を自分で探す仕組みになっているということだ。どんでん返しなどで隠される隠し階段や隠し通路を探しつつ、意表を突くかのように存在する隠し部屋を巡っていく。人が多いと答えがわかってしまうというのが難点だが、それなりに楽しむことができる場所だったといえよう。
私は反対側の深い森の中へ入り、そのまま奥社詣でをすることにした。参道は戸隠森林園の北端となるどこまでもまっすぐな道で、バスからもそこかしこに見ることができた静かな高原の林の中を通る。半分くらいまで来たところに古い門がある。かやぶきの屋根の上に若い植物が茂って林になりつつあるほど古いけれども、対照的に屋根の下の朱色が森の中に映える。ここからの林は自然林と言い切ることができなくなるというのが一目でわかるほど、太い杉の並木道はそこまでと明らかに違う雰囲気を作り出す。だいたい平坦な道、または緩い坂道なのだが、最後の数百メートルだけは急な階段道となる。まさに、「百里を行くものは九十九里を半ばとす」という教えを遵守すべき世界である。奥社自体は、なんてことのない小さな社だ。少しばかり眺望が開け、隣の山くらいは見渡せ、それなりに清々しい雰囲気になっていた。
参道を引き返し、さっきの古い門の所にある分岐から、私は戸隠森林園の中へと進んだ。要するに、手入れをしないままの林の中に道を渡しただけの場所で、それだけ、木々や草のざわめき、虫や鳥のうごめきだけの世界が広がる。ナラなどの鬱蒼とした森もあれば、ミズバショウの湿地もある。湿地にはアザミと見られる背の高い草が紫の花をつけ、黒く大きいチョウや茶色いチョウが群がって蜜を吸う。平和な虫達の時間の流れる心地よい森林だった。
私はバスで中社宮まで下った。バスからも堂々として見えた大鳥居の周りは食べ物屋と土産物屋が賑やかで、あくまで森の中であった奥社付近とはだいぶ様相が異なっている。とりあえず戸隠ということで、私はそば屋に入ることにした。野菜天蕎麦を頼んだら、歯ごたえのある蕎麦とともに出てきた天ぷらは自家製の野菜であった。蕎麦だんごももちもちしておいしい。神社の宿坊や戸隠スキー場の客向けの宿も見られる賑やかな街並みを歩くうちに引力を感じ、私はチビッコ忍者村へ行くことになった。忍者屋敷の類もあるのだが要するにアスレチックだったりして、本当は家族を連れて本気で遊ぶつもりで来るべき所かもしれない。
最後に駆け足で、太い杉の木のたくさん立つ中に堂々とした社殿を持つ中社にお参りし、私はそのまま、長野に戻るバスに乗り込んだのだった。
翌日、私は長野駅から北へ向かう列車に乗り込んだ。北長野を過ぎるあたりまで、前はなかったはずの新幹線の高架を従えて、昔特急列車として活躍していたはずの列車は北上する。車窓にはしばらく住宅地が続くが、三才を過ぎると平野はリンゴ畑に支配されるようになった。まだ色づいているのは一部でしかなかったが、これからの季節が楽しみに思えてくる。そんな、丘陵とリンゴ畑に支配される世界は、豊野を過ぎて飯山線を分けると谷間に沿う山道へと変わり、列車は細い杉木立の濃い緑色の中を縫うように走るようになってくる。天気は下り坂らしいがまずまずで、森の色は昨日みたものに比べ、濃く深い。古間から黒姫に至る辺りでは列車は森からは離れ、田圃や街並みの開けるそれまでよりは明るいような印象を車窓に与えてくれる。
私は黒姫で列車を降り、すぐに発車する野尻湖行きのバスに乗り込んだ。乗客は私ひとりで、同時に発車する黒姫高原行きのバスに乗っている客数に比べると至って淋しい。一茶の史跡の多いらしい街並みを抜け、高原行きのバスとも別れると、バスは18号線にそって森の中へ進む。そして森を抜けると、家並みの向こうに野尻湖の青白い湖面があらわになった。
野尻湖のバスターミナルの付近は完全に観光地化しており、色とりどりのスワンボートや小舟が岸壁を埋め尽くす。正直言ってこの辺りはあまり落ち着ける雰囲気ではないのだけれど、湖の方を見る限りは、広い湖面はあくまで穏やかに横たわっていて、そこから流れてくる湖の風はとても心地よい。私は野尻湖を一周する遊覧船に乗り込んだ。湖の上へ出てみることによって、私はこの湖の外形が案外入り組んでいるものだということに気がついた。湖を囲む緑色の、起伏に富む丘は何度も何度も湖へ突き出して、変化に富んだ風景を作り上げてくれる。湖岸一周のサイクリングコースもあるとのことでレンタサイクル屋も繁盛しているようなのだが、ここから見る限り、自転車で一周するのは起伏がありすぎて大変そうだ。山の緑を映して深緑色に輝く湖面の遠方は青白く光り、さざ波を立てる。厚い雲に隠されて妙高や黒姫山が見えないのが残念なところだ。丘の緑のなかには青や赤など色とりどりの別荘も見られるが、それは決して発着所のように人工的な風景とは化しておらず、緑の中に生える別の植物のように、きわめて自然
に息づいているのだった。船は野尻湖に浮かぶ弁天島に寄港し、次の船までの時間を島で過ごすこともできる。対岸からでもよく目立つ大きな鳥居の奥には石段が続き、杉並木の先には宇賀神社、それ以外は至って深緑一色の、鬱蒼とした島である。どこにいても常に蝉時雨と湖のさざ波が聞こえる、のどかな時の流れる島だ。
野尻湖といえばナウマン象化石の発掘場所としてあまりにも有名なところだ。次の船で発着場まで戻った私は、近くのナウマン象記念館を訪れることにした。中に入ったとたん、実物大のナウマン象とオオツノジカの復元模型に私は目を奪われた。どちらもとにかく、でかい。鹿といいつつオオツノジカも馬並の大きさだ。化石からわかるナウマン象という存在、また象の骨格がバラバラに発掘されたことや、石器とともに骨器が出土したことから示唆される、象を獲物にしていた人類の存在、野尻湖そのものの歴史や野尻湖文化の歴史などについて、とても充実した展示が中にはあって、この手のものにしてはなかなか見応えがある。ナウマン象はいなくなってしまったけれど、この辺りの人類の営みは4万年前から脈々と続いてきたものらしい。「湯たんぽの化石」を発端にした発掘は今後も続くといい、これからどんなことが明らかになってくるのか、見ているだけの私にもとても楽しみなことのように思えてきた。
午後、私は野尻湖から黒姫高原へ移動するバスに乗り込んだ。道には焼きトウモロコシの売店が林立しており、どうやらこのあたりがトウモロコシの産地であるらしいことが伺える。貫ノ木までさっきの道を戻ったバスは、そこから黒姫高原に向けて進んでいくようになる。別荘やペンションが多く並ぶけれど、高原の木立に囲まれ、至って爽やかで涼しそうな雰囲気である。長く続いた坂道を上り詰めると、道は森を抜け、一転明るい広々とした雰囲気に包まれるようになり、おそらく冬はスキーヤーでにぎわっているであろうあたりがバスの終点になっていた。
冬はスキー場になる高原、厚い雪の下に当たる部分には実はコスモス畑があり、この時期可憐な紫や白の花が咲き乱れている。レストハウスで地ビールをいただきほろ酔い気分になった私は、この時期でも運行しているクワッドリフトに乗って望湖台へ向かった。リフトの終点からカラマツ林を抜けると、おそらくスキーヤーがたまることになる地点の正面に、一気に眺望が広がる。真正面に、さっきまで滞在した野尻湖が、思いの外いびつな形で横たわり、黒姫の街並みと、その周りの田圃からなる淡い緑の別の湖に丘陵という深緑の島が浮かんでいるかのような風景が、視界一面を尽くしている。背後を振り返れば黒姫山が頂上まで見渡せるのだろうけれど、雲が厚いのがとても残念だ。私は冬ゲレンデになっているであろう道を歩いて下った。もちろん木はないから見晴らしはきわめて良くて急坂も苦にならず、軽快にすべりおりるのではなくゆっくり歩いていくことによって、地面に生えるいろいろな植物にも自然と目が行く。中腹にさしかかったあたりから周囲はコスモス畑に包まれた。時期をずらしてあって、上の方はまだ咲い
ていないけれど、下の方に行くほど見頃の華やかさになってくる。高原の風に、赤、白、紫の花は絶えず揺れ、緑一色にも思える山の中に、鮮やかな色彩を与えてくれる。そんな風景を眺めながらいただく、焼きたての黒姫のトウモロコシの味は、それは最高のものだった。
高原の風に揺れるコスモスの風景を満喫した私は、帰り道に就かんと、黒姫駅に帰るバスに乗り込んだ。まだ少しだけ時間に余裕があったので、私は黒姫駅前の街並みを散歩していくことにした。街並みの一角に深い森を擁している小丸山公園の中は、小林一茶づくしといった感がある。墓もあればいくつかの句碑もあり、寺、そして記念館もある。小さい記念館の中では、一茶という人物とその時代の紹介が展示される。一茶の句は好感の持てるものが多くて私も好きなのだが、この地は一茶の生まれ故郷でもあり、そしてまた、晩年を過ごしたところでもあるという。ここは駅名にはなっていないが宿場町としては柏原という名前の街を見守る静かな緑地なのである。黒姫山のすらりとした姿も一瞬だけ顔を出してくれた。一茶旧宅へは国道18号を少し歩く。さすがに車通りも多く、街並みは元宿場町というだけあってそれなりに賑やかな雰囲気を持っていた。
黒姫駅まで戻る間にとうとう雨が降り出してしまった。黒姫山にも雲が低く立ちこめ、もはや姿を見ることができなくなっていた。そんな陰鬱な道を通り、私は家路に就くことになった。山道を抜けてしまえば雨は上がったけれど、長野から再び篠ノ井線に乗る頃から、私に旅の終わりを告げるがごとく、空はだんだんと明るさを落としていったのだった。